('A`)頭の悴む白昼夢のようです  [ログ



わたしは、夜行列車に揺られていました。
どうやら眠っていたようです。
ですが、わたしが何故、夜行列車に乗っているのか、思い出せません。
しかし、夜行列車ということは理解できるので不可解でなりません。
ガタガタと哭く窓を隔てた向こうは、溶けてしまいそうな黒だからでしょうか。

記憶を辿ると、眠る前は、学校にいたような気がします。
あるいはそうではないのは解っていました。

(´・ω・`)「先生、質問してもいいですか?」






  ('A`)頭の悴む白昼夢のようです






声がした方を見ると、誰もいません。
おや、と思案して、視線を少し落とすと、少年が坐っていました。

端整で、均等で、水銀のような艶やかさをいっしょくたにして、宇宙の神秘を湛えているようでした。

('A`)「……君は?」

(´・ω・`)「地球には、重力があるのに、人はどうして地球に埋まってしまわないのですか?
       それから僕の名前は*****です」

聞こえませんでした。ノイズが混じって、どろどろするのです。
少年の質問は馬鹿げています。すべての事象には、アンチがあるからに決まっています。
もしそんな無茶苦茶で有耶無耶なことがあるのなら、大変です。

('A`)「そんなことはないよ。実際違うからね。逆の力が働いて、」

(´・ω・`)「それから、玄石で北磁極しかないのや、南磁極しかないのは、存在しないのですか?」

わたしの返答を遮り、少年は、次の質問をしました。
わたしの眼を見ずに、窓の外を見つめています。
少年は、特別、わたしが答えるのを聞きたいわけではないのでしょうか。

夜はすっかり更けています。



そういえば、少年は先程からわたしのことを「先生」と称するのですが、わたしは少年の先生ではありませんし、わたしは少年のことを知りません。

確かに、わたしは教師をしています。
しかし、少年がそれを知ってか知らずか、まるで教え子の如くに「先生」と呼んでいます。
その上、名が聞き取れませんから、思いだそうにも思いだせません。

('A`)「君は、いくつだい?」

(´・ω・`)「先生は、以前、授業で、ガラクシアスについてお話ししてくださいましたね。
      僕は、ガラクシアスがどんなものなのか知りません。見たことがないのです。
      さぞかし美しいのでしょう。神々しいのでしょう。
      それから僕は思ったのですが、卯が餅をついているという、あの月は、どうしてあのままなのですか?」

わたしはもう、少年に質問することをやめました。

『以前、授業で』と、少年は云いました。
記憶力の悪いわたしですら、こんな美麗な少年を一目見たとしたら、決して忘れない筈です。

('A`)「卯はいないよ。迷信さ。あのまま、とは?」

(´・ω・`)「この地球は、引力も重力も持っているのに、どうして月は地球に落ちてこないのですか?
      どうして地球の周りを回っているままなのですか?」

白くて細い指先で、円を何度も描きます。
わたしの眼の精度が落ちているのでしょうか、あるいは妄想でしょうか、その軌跡が見えました。
その所為で偏頭痛がおきたので、眼をしばたたかせて、何とか思考を持ちなおします。

わたしは試しに、黙って、答えないでみることにしました。
懸念に反して、少年も、むっつりと黙ってしまいました。
変な少年だと、思いました。




――今、何時だろう。

少年を一瞥してみましたが、見たところ、時計なんかを持ち合わせているようには見えないですし、最悪、時間など、到底気に留めていないようです。
しかし、退屈しのぎになるかと思い、面白半分で、この列車についても訊いてみることにしました。

実際、わたし自身、この夜行列車が何処へ向かっているのか、何を目的に走っているのか、解らないのです。

('A`)「君は、どうしてこの列車に乗っているんだい?」

(´・ω・`)「先生、*****と呼んで下さい。親しみと、鬱々しさを試験管に入れて混ぜたように云うと、巧くいきますよ」

そう云われたって、聞こえないのですから、呼びようがありません。
そして結局、わたしの質問には答えてくれないのです。

名前を訊いたときには、すんなり――というよりは、自ら云ったようでしたが――答えてくれました。

(´・ω・`)「先生は、どちらまでおいでですか?」

('A`)「わたしかい? わたしは、解らない」

(´・ω・`)「へえ、先生、おかしなことを仰いますね」

風がなびいたような笑顔を見せました。

とんでもないことに、恨みたくなるほど美しい笑顔でした。



('A`)「君は?」

返事など、ないのは解っていましたが、どうしても、訊かずにはいられません。

先程から、駅に停まる様子はありません。
今、何処を走っているのでしょうか。
少年は、それを知っているのでしょうか。
少年は、どこかの駅で、降りてしまうのでしょうか。

('A`)「君は――、」

(´・ω・`)「先生、不思議ですね。そう、思いませんか?」

少年は、倦むように云ったかと思うと、慈愛に満ちた眼差しで、わたしを見上げました。
わたしは、その、何とも云えない表情に心を奪われ、呆気にとられてしまいましたが、すぐに我に返り、

('A`)「ああ――無情なまでに、不思議だ」

と、返しました。

何が不思議なのかは、問いませんでした。
少年が、何を不思議がっているのかは、ちっとも解りませんし、恐らく、訊いたって、ちっとも解らないでしょう。

(´・ω・`)「先生、僕、喉が渇きました。何か飲み物はお持ちでないですか?
      ――ああ、でも僕、平野水は飲めないんです。喉を滑るとき、痛いでしょう?
      あれが、どうしても好きになれないんです」

少年に云われて、初めて気付く、異変。
きっと、夜行列車。




ふと手元を見やると、一冊の、薄っぺらいファイルブックと、使い古した万年筆だけが、わたしの右手に吸い付いています。
他の荷物は見当たりません。

その、白濁色のファイルブックは、わたしの愛用するファイルブックで、真新しい傷が目立つ万年筆は、わたしの愛用する万年筆です。

ただ、普段と明らかに違うのは、ファイルブックが、購ったばかりの頃のように薄いこと。
このファイルブックには、生徒の家庭での様子と、学校での様子と、わたしなりの対策が授業ノオトよりも緻密に、わたしの記憶よりも大切に、
書かれたものが綴じてある筈なのですが、見るに、綴じているのはスケジュウルダイアリイのようです。
これは不思議です。

('A`)「わたしも、喉が渇いてしまった。けれど、残念ながら何一つ持っていないんだ」

少年は、本当に残念そうに眉を垂れ、二、三度脚をばたつかせました。

わたしとて、少年に何かあげたいものです。
残念なのは、わたしも同じことなのです。

すると、少年は突然立ち上がり、わたしの視界の外へと走り去ってゆきました。
理由は解りません。




とにかくわたしは、手元のファイルブックを開いてみることにしました。

わたしのスケジュウルダイアリイは別にあります。
ちゃんとした、手帖です。
ところが今はなくて、これがあるのですから、開く手は自然と強ばっていました。


『七月十九日』。


一番初めの日付は、それでした。
七月十九日――と謂えば、丁度、夏休みが始まり、同時に夏の課外授業が始まる日です。
年は、書いてありません。


『皆ノ顔ハ益々無邪気ニナツテイク。賢一郎ナドハ、既ニ市営水泳場ニ行ク約束ヲ交ワシテイタ。
 ワタシトイヘバ、特別スルコトモナク、只、学校ノ草花ニ冷タヒ水ヲ撒キ、家ノ玄関ノ椿ニ冷タヒ水ヲ撒キ、
 小サナ縁側ノ日陰デ寝ソベル猫ト共ニ、世ノ憂ヒヲ語リ、カチ氷ヲ食ベルノダロウ。
 然シ、ソンナコトガ、何物ニモ代エ難ヒ、最上ノ幸セトイフコトヲ、ワタシハ疎カ、猫デサヘモ、知ツテイルノダ』。


ああ、何て不可解なのでしょう。
わたしは、学校の草花に水を撒くし、家にも椿があり、小さな縁側もあり、家に住み着く縞の猫がその縁側の日陰で転んでいるので、
その横で思うことをひとしきり云った後、霙のかき氷を並んで食べるのです。

勿論、猫がかき氷を食べるわけではありません。




しかし、そこまで一致していながら、わたしは、『賢一郎』という生徒を知りませんし、何より、このような日記を書いた記憶もないのです。

筆跡は、わたしのそれとよく似ています。

翌日の日記を見ると、十九日よりは短文のようです。


『七月二十日 ワタシハ蓄マツテイル事務ヲコナサネバナラナイノデ、傷ミノ酷ヒ木造ノ机ニ向カヒ、持チ慣レヌ筆ヲ執リ、少シバカリ、仕事ヲ済マセテイタ。
 今日モ蝉時雨。茄子ノ揚浸シガ食ベタクナツテクル』。


('A`)「茄子の揚浸し――」

夏の初めに、必ず食べたくなるものでもあり、好物でもあるもの。

それから、『傷ミノ酷ヒ木造ノ机』。
これは、大学に入った当時――もう何年も前の話だ――お金を貯めて、気に入ったので、思い切って購ったのです。
わたしは、なるたけ親には迷惑をかけさせまいとしていたので、自分が欲するモノは、何とか工面して購っていました。
当時でしたので、思いの外高価で、当分食に困った憶えがあります。
恐らく今では、購いたい本を一冊か二冊程我慢すれば、ゆうに購えるでしょう。
そして勿論のこと、未だに重宝しています。

何だか、タイムスリップでもしたような気分です。

そういうことは逐一記憶しているのだと思うと、生徒に申し訳ない気持ちが一層増します。




わたしは、生徒の名前を憶えるのが苦手です。
顔は憶えられるのです。
名前は、調べれば分かりますが、顔は調べようがないからだと、わたしは勝手に難癖をつけています。

以前、名前の思い出せない生徒に対して適当な名前を当てずっぽうに呼んだら、
その生徒が予想以上に憤慨してしまい、教頭に叱責されてしまったことがあります。

その時、教頭は、

「名前を憶えてもらえない、ということは、生徒にとって、たいへん酷なのですよ。生徒のことを考えてご覧なさい。
 毎日々々、夜寝る前に、生徒の顔と、名前を照らしてご覧なさい。忘れてしまってはならないのです。
 人は、『忘却』という機能に振り回されていますね。かと云って、忘れないまま蓄積されると、困りますね。
 人は、考えることが多くて、素晴らしいですね」

と、仰いました。

同時に二つのことを仰いましたので、脈絡を掴めませんでしたが、お腹の辺りが混沌として、頭を悩ませてしまいました。
その日は、まだ手がかじかむには早い、冬の日でした。

(´・ω・`)「先生」




驚愕して、少しばかり、お尻を浮かせてしまいました。案の定、少年です。

(´・ω・`)「何がよろしいか分かりませんでしたので、温かい珈琲を頂いてきました。お砂糖とミルクはどうなさいますか?」

真白いカップを差しだし、小さな、これも真白の壼と、如雨露のようなモノを見せてくれました。
どうやら、少年は、どこかで飲み物を調達してきてくれたのでしょう。

少年は、それにしては楕円の酷い盆の上に、わたしの珈琲と砂糖とミルク、それから自分の分を乗せてきたようです。

('A`)「有難う。砂糖は、いいや。ミルクを頂こうかな」

(´・ω・`)「先生、僕、珈琲を飲んだことがありません。だって、こんなに黒いんですもの。
      飲んでしまうと、たちまち、この闇に飲まれてしまいそうです」

少年は、わたしの珈琲をまじまじと不穏そうに見つめながら、ミルクを混ぜてくれました。

(´・ω・`)「先生、ご存知ですか? 先生は、この闇を、こんなちょっとの光で和らげようとしていますが、
      絵具の白に黒を混ぜて灰にするのは容易いですが、黒に白を混ぜて灰にするのはし難いのですよ」

('A`)「そのちょっとが、一番いいんだよ」

(´・ω・`)「先生、意固地になるのはよくないです。ほら、見てください。黒いままじゃあないですか」

カップの中を見せつける様に、手渡す少年。
確かに、珈琲の色は、人間のような眼の悪い動物には、変わっていないようでした。



わたしは、何故かそれが可笑しくて、口元を押さえてしまいました。
少年は不機嫌そうな顔を露にして、乱暴に坐りました。
それがまた可笑しくて、一層笑ってしまいました。

(´・ω・`)「何が可笑しいのですか。僕、真剣ですよ。大人は、失礼です」

薄桃に染まる少年の頬が少し膨れています。

('A`)「君の方が、幾らか失礼さ」

とは云いませんでした。

ゆらりと、蒸気が仄かに昇るカップに口を付け、一口飲みますと、嘆息が零れました。
少年は、甘い匂いを漂わせています。
ココアか、何かのようです。

(´・ω・`)「先生、ミルクの具合はどうですか?」

おかしな訊き方をします。

('A`)「ああ、調度いいよ。有難う」

(´・ω・`)「先生、僕、眠たくなりました。肩を、お借りしますね。
      ご迷惑でしたら、静かに下ろして下されば、いいですから」

('A`)「そのくらい、介意わないよ。遠慮せずに」

そう云うと、少年は、目を細めて安らかに微笑みました。
 空になった、白に茶の太い線が一本入ったマグカップを少年から受け取り、少年を促すように、その小さな躰を、頼りない肩に預けさせました。




『肩を』、といいますが、少年の頭がわたしの肩に届くわけはないので、実際のところは、単に凭れかかるだけです。

少年が睡魔に見舞われるということは、やはり、夜なのでしょうか。

不意に、車掌が来ないということに気付きましたが、あまり気にしないことにしました。

わたしは、次のダイアリイを見ようと、ゆっくりペエジを開きました。


『七月二一日 庭ノ野菜ノ様子ヲ見テミルニ、今年モ出来ガ良ヒノガ沢山生ナツテイテ、熟レタ頃ガ早クモ待チ遠シクナツタ。
 トハイへ、モウスグ生ルノダカラ、ソウソウ子供ノ様ニ、ミツトモナク浮カルルホドデモナヒノダガ。
 然シ、コノ無邪気ナ心ハ、忘ルルベキデハナヒ。誰ノ笑顔デアロウト、快ヒノハ当然デアル』。


('A`)「……ふむ」

――今度は庭の野菜か。

わたしの家のささやかな庭には、蕃茄、胡瓜、茄子、それから薩摩芋が植えてあるのです。
毎年、わたしが十二分に食べられる程に実を付け、季節の匂いを運びます。
友人が訪れた時、僅かながらもてなせる程に。




('A`)「弱ったな」

別の情報が欲しいのですが、詩歌めいたもので結ばれているばかりです。

これを書き留めたのは、わたし自身でしょうか。
それとも、わたし以外のわたしでしょうか。

筆跡、状況、ファイルブックから判断すると、十中八、九、わたしが書いた、ということは、どうやら間違いではなさそうです。
わたしが書いた、けれども、『書いた』のは『わたし』ではない――……?

温くなった珈琲で覚醒させようと、一気に呷りましたが、口の中が苦味で一杯になって、覚醒どころか、多少滅入ってしまうだけでした。

誰かが、代筆。
筆跡なんて、似ていようが、大して不思議なことではありません。

ところが、わたしの心情なんかを知る術があるのなら、わたしは是非とも知りたいです。
他人の気持ちを知って、やましいことをしたいわけではありませんが、研究者や科学者の頭の中は、どうなっているのか興味深い限りなのです。

とすれば、どうしてわたしの頭の中を視て、代筆なんかをするのでしょうか。
はっきり云って、面白くも何ともないでしょうに。
そもそも、そんな能力はあり得ないのですから、考えても仕様ありません。




――夢。

そう考えるのが、一番辻褄が合う、とは、最初から思っていたことでした。

ただ、そう思わないのは、少年が、温かいからです。
少年が寄りかかる、わたしの躰の右側が、温かいから。
理由には充分だと思っています。

夢、とは、非情なものです。
生まれてこのかた、立体感があって、生命的な夢というものを視たことがありません。
人間味には、長けています。
それは、わたしに限ったことなのかも知れませんが、上辺で、閉鎖的で、凛としない、酷な冷たさが溢れ、目的はなく、混濁していて、不穏で、
愛する人の隣にいても、大好きな生徒達と笑っていても、どんなときでも、背後を気にし、光を求め、温もりを、追って、駆けて、そして、転んで、現実が、痛い。

だからわたしは、夢が嫌いなのです。
もし、この少年が、夢や幻であるならば、どうか、消えないで。

「先生?」

はっとして、顔を上げました。少年は、寝ています。




(`・ω・´)「先生、どうしたのですか? 眠らないのですか?」

素っ頓狂でいて、優しい笑顔の、青年です。
これはまた、黒髪の、綺麗な人です。

青年は、被っていた帽子を取り、深々と頭を下げました。
わたしもつられるように会釈しました。

やはり、この青年も、わたしは知らないのに、「先生」と呼びます。

(`・ω・´)「まぁ、大事になさっているんですね」

('A`)「え? これですか?」

(`・ω・´)「ああ、いいえ、その子ですよ」

流麗に笑って、少年を示しました。
わたしは吃驚しました。

('A`)「わたしが? この子を?」

(`・ω・´)「あはは、何でそんなに驚かれるんですか。
 この子、こんなに安心しきっていますよ」

ちらと少年の寝顔を覗くと、本当に健やかな寝顔をしています。
思わず微笑んでしまいました。

(`・ω・´)「先生、そんな顔をなさるんですね。初めて見ましたよ」




青年はおかしなことを云いました。

そんなこと、当たり前です。
わたしは青年に、わたしの微笑んだ顔はもとより、わたしの顔自体を見せたことがないのですから。

('A`)「けれど、わたしとこの子は、何の関係もないのですよ」

大事にしていない、とまでは云いませんが、寵愛する程ではないのです。

すると、糸が切れたように、ふっ、と薄ら笑いを浮かべた青年は、

(`・ω・´)「こうして共に時を過ごしているのですから、既に、『関係』しています。
      縁が繋がったのですよ」

と云い、それから、


(`・ω・´)「しかし先生、『何の関係もない』とは、あんまりじゃあないですか? 飼われているんでしょう? ――この子を」


と、他人事のように、続けました。

青年は、綺麗に一礼して、静粛に離れていきました。




あの青年もまた、一体わたしの何なのでしょう。
あの青年と話していると、時間の感覚が狂ったような、あやふやな感覚に襲われてしまいます。

名前を、訊いておけばよかった。
彼の名前なら、聞こえたかも知れなかったのに、そう思いました。
わたしは、何か乗り移ったかのように、青年の似顔絵を、スケジュウルダイアリイの隅に描いておくことにしました。

意味はありませんが、青年の云った、『縁が繋がった』という言葉を、どこまでも信じたかったからでしょう。
またいつかどこかで、巡り合えた時に、彼の顔を、忘れてしまわないように。

少年が、二、三度、頬擦りをしました。

青年は、わたしが少年を『飼っている』と云いました。
意味が、解りません。

わたしは、少年と、今日初めて逢ったのに、『飼っている』。
しかもその上、少年は飼い犬でもなんでもなく、人間の子供なのですから、『飼う』なんていう表現は、あんまりではないでしょうか。

ちょっとした苛立ちを覚えながらも、次のダイアリイを捲ってみました。





『七月二二日 夕立ガ降ツテイル。先刻、雨宿リヲシテイルト、ワタシガ手拭イヲカケテクレタ。』。


('A`)「何だ……?」

厭な文章です。
『わたしが雨宿りをしている』のに『わたしが手拭いをかけてくれた』?

そしてこの文章を書いたのは『わたし』だ。
わたしは、どうかしていたのでしょうか。

仮に、わたしがどうかしていたとしましょう。
それでは誰が手拭いをかけてくれたのでしょうか。
わたしは、まだ若いと云えども、独り身ですから、自宅には誰一人いません。

それに、冷静に考えて、手拭いは普通、薄くて、唯長細いだけですから、濡れた人間がそれで大丈夫なようには到底思えません。
本当に手拭いをかけてくれたのなら、その人の感覚と常識と視覚を疑うべきです。


『振ルウト、ワタシハ苦ク笑ツテ、牛乳ヲ注イダ。ソレヲ半分程飲ミ、ソノママ寝タ』。


主語が明確でありません。
誰が何を振るったのか。

ここまでなると、牛乳を飲んだのと、寝たのは主語が違う可能性もでてきます。




('A`)「困りましたよ、教頭先生」

ぽつりと呟いてみました。
別に、教頭がいるわけではないのですが、何だか――子供じみていますが――物恋しくなったのです。
あの人は、何かとつけて助言をしてくれますから、教頭がこの場に居ようものなら、きっと、一緒に悩んでくれるでしょう。

――『わたし』は誰なのだろうか。

哲学の問題に直面したようです。
何年か前、わたしが哲学書を読み耽っていた頃、わけが解らず混乱してしまい、
授業中にまで生徒に突然意味不明な質問を突き付けて、授業が授業にならなくなったことがありました。

その時も教頭がわたしを落ち着かせてくれたのです。
その哲学の問題の答えを、教頭が持っていたわけではありませんでした。
ただ、実にしっとりとした口調で、

「あなたがちゃんと立っていないと、生徒が途方に暮れてしまうでしょう。
 先生、あなたは、惜しまれる人になって下さい」

とだけ仰いました。
わたしは何故か涙が溢れてきて、自分の不甲斐なさを悔やみました。



「先生のところの猫は、元気ですか?」

日暮しが啼く、残暑の頃でした。
教頭が、学校の草木に水を遣るわたしに、訊きました。

えぇ――まぁ。

「見に、行きたいですね。いつ頃、やってきたのですか?」

そうですね……秋口じゃあないですかね……。
親猫とはぐれてしまったようで、たまたま焼いていた秋刀魚を少しあげたら、住み着いてしまって。

「毎日、餌を?」

教頭は、にこにこと訊きました。

いや、寄ってきたときだけ、です。

感心するように、何度か頷いていました。

「それで、名前などは、つけたのですか?」

えぇ、それは、もう。

「何と?」

ヘラクレイトスという、哲学をした人の考え方で――、

(´・ω・`)「――先生?」




気付けば、わたしは少年の儚げな手を握っていました。

(´・ω・`)「そんなに大きく目を見開いていると、眼が乾いてしまいますよ。
      どうしたのですか? 御手が、ひどく汗ばんでいます」

少年は、わたしがあんまり強く手を握りしめるので、起きてしまったようです。
周章てて、手を離しました。

(;'A`)「ご、ごめん。起こしてしまったようだね」

(´・ω・`)「そんなことは全然介意わないんですが、先生、何を考えてらっしゃったんですか?」

まるで宝石のような瞳がわたしを射止めます。
咄嗟に、眼を逸らしました。
やっとのことでした。

(;'A`)「――い、いや、何も」

わたしは、どうしてこんなにも過剰に焦るのでしょうか。
全く解りません。
何一つ、焦ることなど、ないのに。

(´・ω・`)「先生、質問してもいいですか?」




びくりと、躰が跳ねました。
わたしに、拒否権はありません。

すると、少年は珍しく質問を止め、驚いています。

(´・ω・`)「先生、本当に、どうなすったんです? 僕、何か変なこと云いました?」

(;'A`)「い、否、何でもない。大丈夫」

(´・ω・`)「――そうですか」

わたしは息が詰まっていたので、深呼吸をして、落ち着かせました。

(´・ω・`)「では、先生、どうして――解らないのですか?」

('A`)「――え」

少年は、子供の顔で訴えました。
わたしはどうしてよいのか解らず、目を、あちらこちらに泳がせました。

(´・ω・`)「先生は、実は、もう、解ってらっしゃる筈です」

(;'A`)「な、何の――」

少年は、ゆっくりと、スケジュウルダイアリイを指差しました。



(´・ω・`)「僕、こうやって先生と話したかったんです。ずっと。兄さんが、この夜行列車を用意してくれました。
      そのスケジュウルダイアリイは、先生のそれと同じですが、先生のではありません」

少年は、スケジュウルダイアリイを、そっと手に取って、はらはらと、適当に捲りました。
その横顔は、どこか、満足そうです。


(´・ω・`)「僕の、日記帳です」


わたしは、その一言を聞くなり、突如睡魔に襲われ、瞼が重たくなりました。

(´・ω・`)「これを書き始めたのは、先生がお魚をくださいました日より半年程、経過していました。
      先生と日々を共にして、ふと思いついたのです」

少年の言葉は、次第に遠退く感じがしました。
わたしは、自分を奮い、起きていようとしましたが、どうも難しいのです。

(´・ω・`)「もっと、話に華を咲かせたかったのですが、どうも緊張してしまって。
      すみませんでした。先生と、お話できて、幸せでした」

('A`)「君は――、」

少年は、心の底から幸せそうに笑いました。

(´・ω・`)「名前、思い出しましたか? 先生――」

わたしは、深い深い闇に吸い込まれるように、目を閉じました。
あの、珈琲のような闇に。



('A`)「――パンタ・レイ」

「ああ、お早うございます。もう、あと残っているのは教頭とぼくだけですよ」

辺りを見ると、学校の教官室のようです。
窓は、赤に染まっています。

わたしは、溜息を吐きました。
嫌になるほど、深いやつです。

わたしの事務机を見ると、生徒達の解答用紙が広げてあり、わたしは朱いインクを染みこませた万年筆を握っていました。

――夢――、にしては、現実的だった。
わたしは、少年がいなくなって、眉を垂れました。

「先生」

顔を上げると、教頭の笑顔がありました。
安堵の息を洩らすと、教頭は訝しげに微笑みました。

「先生のところの猫さんでしょう?」

わたしは面食らいました。
教頭が、何故夢の話を知っているのでしょうか。

教頭は、窓の外の、昇降口辺りを指差しました。
指す方を眼で追うと、猫がちんまりと坐しています。

('A`)「――あ」



わたしの、拾って、住み着いている猫です。
どうしてここにいるのでしょう。
それでもわたしは、安心と歓喜が込み上げてきました。

('A`)「ああ――パンタ・レイ」

溜息のような、声でした。

「主人の帰りを待ち侘びているのでしょうかね。さぁ先生、日が暮れる前に」

云われるがまま、帰る支度を始めました。

――夢なんかじゃあ、なかった。

わたしは笑いが抑えられません。いつまでも、くつくつと笑っています。

('A`)「それじゃあ」

片手を上げる教頭に、わたしは、忘れてはならないことを云いました。

('A`)「――また、あなたに助けられました。危うく、少年のことが分からないまま、目が覚めてしまうところでした。
    本当に、お世話になります。教頭先生がお困りのときは、いつでもわたしを使って下さい」

教頭は、不思議そうな表情を欠片も見せずに、

「ええ、遠慮なく、そうさせてもらいますね」

と、いつもの、穏やかさを包んだ笑顔になりました。
わたしはほっとして、頭を下げて教官室を退出しました。




昇降口まで行くと、猫が坐って、わたしを見上げています。
何となく、嬉しそうです。

('A`)「君だったんだね、パンタ・レイ」

パンタ・レイは、にゃあと一つ鳴き、わたしの足元に擦り寄ってきました。
少年が、わたしに頬擦りをしたのと似ています。

一緒に歩きだそうとすると、地面に影が伸びました。
わたしからではありません。

(`・ω・´)「先生?」

あの、夜行列車で会った青年です。
描いた似顔絵を思い出しました。

(`・ω・´)「どうやら、謎解きはできたようですね。よかった」

わたしは、思わず口元を緩ませました。
やはり、『縁が繋がった』のです。

(`・ω・´)「おれは、こいつに頼まれたんです。
      『先生に訊きたいことが山程あって、どうしたらいいかわからない。でも訊きたい。どうにかならないか』
       ――とね」

パンタ・レイが、照れているのか、わたしの後ろに後退りしました。




(`・ω・´)「まぁ、きっと、まともな会話はできなかったでしょうが、緊張していたのです。
      お許し下さいませ。日記の謎解きは解けましたか?」

青年は嬉しそうに話しています。

確かに、解れば、殆どは理解できたのですが、何故、まるでわたしが書いたような文体だったのかが不思議なところでした。

(`・ω・´)「先生の一人称が、『わたし』だからですよ」

('A`)「……ああ」

(`・ω・´)「先生のことを『わたし』という名前だと思っていたんでしょうね。簡単な話です」

少年と似た笑い方、笑顔をする青年です。
わたしは、やはり、青年が誰だか気になりました。

('A`)「あなたの名前を、教えてくれませんか」

青年は、赤い空を仰いで、僅かに口角を上げました。




(`・ω・´)「名前はありませんよ」

('A`)「――え?」

(`・ω・´)「あなたに拾われ損なった、こいつの兄です」

聞いて、少年が云っていたのが思い出されました。
少年は、『兄が作ってくれた』と云ったのです。

(`・ω・´)「単純に、ちょっと眼を離した隙に、先生に拾われたんでしょう。ところで先生」

青年はしゃがみこみ、パンタ・レイの頭を撫でて云いました。

(`・ω・´)「おれに名前をくれませんか」

('A`)「――……そんなこと」

(`・ω・´)「弟につけておいて、それはないでしょう」

嫌味でも皮肉でも何でもなく、ただそういう風に、青年は笑いました。
わたしは、青年を見下ろす形になっているのですが、どうも恰好がつきません。

('A`)「……名前をつけたら、わたしには、家族がもう一人――否、一匹、増えるんですよね」

わたしは、疑問に思ったことを率直に尋ねました。
青年は、一旦俯き、すぐわたしを見上げました。




(`・ω・´)「そうさせていただけると、嬉しいです。と云うより、正直云って、おれを拾って下さい。
      ――ああ、でも、おれはこうやって、長いことヒトの貌を保つことができるので、このままでもいいですよ。
      会話できたら、寂しくないでしょう?」

悪戯っぽく、くすくすと笑います。
わたしは、極りが悪くなって、頭の後ろを無造作に掻きました。

('A`)「困りましたね。じゃあ……木染、とか」

(`・ω・´)「――コゾメ? どういう意味ですか?」

自分で云っておいて、わたしは少し可笑しくなりました。

('A`)「大した意味などありません。パンタ・レイと逢った季節の月の異称です。
   陰暦で、僅かにずれますが、頃としては、同じ頃かと、思いまして」

人に、名付けの理由を話すのは気恥ずかしいものだと知りました。
体温が上昇します。

青年は、ははあ、と頷き、猫のように笑いました。
永続を、水のように含んで笑いました。

(`・ω・´)「最高だ」

青年は突飛に立ち上がり、わたしの目前に迫りました。
わたしは、目を見開くだけ見開いて、退いたりはしませんでした。




(`・ω・´)「漢字は、どう書くのですか?」

('A`)「あ、――木が染まる。濃く染まるでもいいんですが、ちょっと、何ですし」

青年が、目を細めて、愛しく笑います。

(`・ω・´)「先生が決めたのなら、何だって介意いませんよ。ああ、幸せだ。
      名前って、こんなにも素晴らしいものなんですね。
      弟が浮かれていた理由が、やっと解りました」

陽が、もうあと少しですっかり沈んでしまいそうです。

('A`)「それと」

最後に、わたしは口を開きました。
こんなに、同一の人と話したのは久方ぶりです。

('A`)「猫、なんですよね」

青年はからからと笑いました。

(`・ω・´)「ええ。おかしなことでしょう。でも、猫、は化け猫と謂うじゃあありませんか」

たった、その一言で、一番不可解なことは片付けられてしまいました。
しかし、それでいいのだと思いました。
そんなことは、どうだっていいのだと。

('A`)「では――暮れてしまう前に、帰りましょうか。帰って、揚浸しを食べよう」



                                                        完





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