※
ありがとうと百辺書いて気持が伝わるなら、どんなに簡単なことだろう。
伝えたいことが多すぎて、何を書けばいいのかわからない。
書きたいことが多すぎて、何から伝えればいいかわからない。
猶予はない。こうして手を拱いている間にも、
刻々と残り時間は磨り減っている。とにかくゆびを動かそう。
格好つける必要はない。支離滅裂でも構わない。
ミスしたって、みっともなくたっていいじゃないか。
それも含めて、自分なんだ。
様々な記憶が甦ってくる。思い出したくない記憶も多い。
けれど、それを手放しちゃいけない。人生の実は、明るいことだけにあるのではない。
辛いことも悲しいことも、すべてひっくるめて私なのだ。
視界が滲んだ。舞台上から聴こえてくる合唱の響きが、鼻の奥をつついた。
ずっと不安だった。重ねて見ていたのではないかと。
ただ、代理の役割を押し付けていただけなのではないかと。
いまなら断言できる。それは違う。
どちらもどちらの代わりにはならない。
どちら共に、私にとっての唯一無二だ。
もう時間がない。自分の意思とは関係なしに、そのときは訪れる。
結びを書こう。正真正銘、最後の最後だ。
少しくらいわがままをいっても、許してくれるかな。
きっと、許してくれるよね――
序幕
走っていると視界がぼやけてくる。
ショボンは力を込めて目をつむり、息を吐くと同時にまた開いた。
毎朝走り続けていても、気道が収縮するようなこの感覚には慣れない。
寒くなり始めましたとテレビは言っていたが、
こうして汗を流していると大した違いは感じられない。
ジャージの下で蒸れた熱気が、襟元から漏れ出して顔にかかる。
涼気を求めて首を反らすと、のどの奥がたちまち乾ききって、余計苦しくなってしまう。
聴こえるものは自らの呼吸音と、頭の中心で鳴り響く加速した鼓動だけだった。
空はまだ薄暗い。住居にも明かりはなく、耳をそばだてれば寝息が届いてきそうだった。
無論、ショボンにそんな余裕はなかった。
アスファルトの硬い感触を、一歩一歩蹴り進める。
住宅街を抜け、坂を登り、下った。他の店がシャッターを下ろしている中、
二十四時間営業のコンビニだけが、煌々と光を放っていた。
踏み切りの前でショボンは立ち止まった。遮断機が下りている。
甲高い警報の音に合わせて、ふたつのランプが交互に点滅している。
ホームにはスーツ姿の男性が、電車が来るのを待っていた。
数えられる程度の人数しかいない。それでも、人々が目覚めるより前に
働きへ出る人が、たしかにいる。錆びたブレーキ音を響かせて、電車が止まった。
ホーム上から男性がいなくなると、電車はゆっくりと動き出した。
汗をぬぐい、また走り出した。
杣矢川を横断する杣矢川橋を渡る。橋の向こう側、他県へと渡ったらゴール。
また折り返す。ショボンは足下に視線を向けながら、石畳の歩道を踏み出した。
杣矢川橋は長い。入り口からでは向こう岸が見えないので、
前を向いていると気が遠くなる。次に歩を置くべき箇所だけを見つめた。
整然と並んだ石畳の、溝に足を取られないようただ走る。
街中とは違い、川から昇った風がたしかに肌を冷やした。
内から発する熱が皮膚面で冷やされていく感触は、心地よい気もしたが、
同時に身震いを起こす悪寒のようにも思われた。
ショボンがどっちつかずの感触に抗しかねていると、突如、石畳に影が差した。
(;´・ω・`)「わっ」
目の前に女性が立っていた。女性は橋の下を眺めたまま、
じっとその場に佇んでいた。ショボンは避けようとして無理に体をずらした。
結果、足がもつれて転びそうになった。何とか倒れずにはすんだものの、
呼吸が乱れてのどがつかえ、変な声で咳き込んでしまった。
ばつが悪くなって、ショボンは体調が回復するのも待たずにその場を去った。
呼吸を整えてから、気づかれないよう静かに振り返ってみた。
女性はいまだ、橋の下を眺め続けていた。
セーラー服を着ている。長い髪に隠れて顔は見えなかったが、
自分よりみっつ、よっつは年上だろう。おそらく高校生なのだと思う。
飾り気のないバッグから、何かのキャラクターが垂れ下がっていた。
彼女は微動だにしなかった。ときおり風が髪をさらうだけで、
動的なものがそこから抜け落ちていた。
ぶつかりそうになったときも、その後も、彼女は何の反応も示さなかった。
組んだ両腕を手すりについて、川に視線を落としていた。
ショボンは振り返るのをやめ、足を早めた。
橋を渡りきった。ここはもう、普段住んでいる街とは異なる地域ということになる。
大きく何かが異なるわけではない。
だがショボンにとって、ここから先は未知の土地であった。
もと来た道を戻ろうとして、ショボンは足を止めた。
考えた末に、行きとは逆の歩道を使うことに決めた。
ここまでで半分。ここから先も半分。
辛かろうと苦しかろうと、同じ距離を走らなければ帰れない。
肺いっぱいに溜め込んで、熱を持った膝に活を入れた。
やることは変わらない。足下に眼を向けながら、一歩ずつ着実に進んでいく。
いつもと同じことを繰り返す。毎日、毎朝、変わらず行なってきたことだった。
なるべく何も考えず、気づけば家に着いている形が望ましい。
だがいまは、思考に雑念が紛れ込んでいた。視線を足下から、
ついつい横へ滑らせようとしてしまう。先ほどの女性が気になる。
なぜ制服を着た高校生が、こんな早朝に川を眺めているのか。
このようなわかりやすい理由もある。
けれどそれ以上に、彼女の放つ得体の知れない雰囲気自体が無視できなかった。
心のどこかで、あれは見てはいけないものだと警告しているようにも感じた。
しかしその禁忌感が、なおさら好奇心を刺激した。結局ショボンは、誘惑に負けて顔を上げた。
彼女は歩道にいなかった。ゆっくりとした歩調で、車道を横切っていた。
一歩進むのに何秒かかっているのか。乱れた髪の隙間に朝陽が差し込んでいた。
地肌がそうなのか光の関係なのか、赤みがかったほほは、倒錯的にも見えた。
陽を直視しているはずなのにまぶしがる様子もなく、
眼は異様に見開かれたまま動かなかった。見つめているようにも、
何も視界に入れていないようにも見えた。眼が、顔の印象を決定付けていた。
平常な人間の喜怒哀楽からかけ離れた表情をしていた。
そしてショボンは見た。彼女と、彼女へ向かって直進するトラックを。
トラックはかなりのスピードを出していた。人がいるなど考えてもいない速度だ。
ゴムの擦り切れる音が、何度も鳴らされるクラクションと共に響き渡った。
それでも彼女は反応しなかった。
彼女の世界では、トラックも、鼓膜を破る刺激も存在していないのかもしれない。
虚空を見上げ、意識ごと別の場所に飛んでいた。
このまま何もしなければ、悲惨なことになるのは目に見えていた。
呼吸が詰まりそうになった。走っていたからではない。
胸の中心が押し潰されそうで、目と鼻の奥が痛くなった。
彼女は動かない。トラックは進む。距離は狭まり、衝突のときは近づく。
ショボンの視界に、そのときの光景が幻視された。
それは、許されるものではなかった。
ダメだ、ダメだ、ダ――
(;´・ω・`)「ダメだぁ!」
彼女に向かって一直線に駆け出した。全速力で、つんのめりそうになりながら。
ふれてもいないトラックの圧力に、側面から押し返されそうだった。
トラックは彼女の間近に迫っていた。それはショボンのすぐそばまで
来ているということでもあり、ショボンと彼女との距離がほとんど
なくなっているということでもあった。
間に合わない。そう思うよりも先に、熱を持った膝がくの字に曲がった。
重い。重力に飲み込まれる。
だがしかし、ショボンは、体重のすべてをつまさきで支えた。
重力に反発し、曲がった膝を一文字に伸ばした。勢いそのままに、彼女目掛けて跳躍した。
不恰好に突進し、ショボンは、彼女と衝突した。彼女の体は綿のように、流れのままに浮いた。
その瞬間、彼女と目が合った。彼女の目が、ショボンを見ていた。
だが。
突然、トラックの向きが変わった。
それは、ショボンと彼女が飛んだのと、同じ方向だった。
バンパーが、目の前の視界を覆った。
最後に見た景色は、赤。
第一幕
まず嗅ぎなれないにおいに感づいた。特別嫌悪感を催すにおいではない。
かといって、好んで近寄りたくなる類のものでもない。
潔癖になりすぎたために、かえって感覚を鋭敏にさせてしまうようなにおいだ。
聴覚からも同じ印象を受けた。静けさが騒音より耳障りだった。
視界が開けたのは最後だった。白い天井に白い壁。レモン色のカーテン。
ショボンは自分が横になっていたことに気がついた。
沈まないベッドと、体の上に布団が掛かっていた。
すぐそばの椅子に、男性が座っていた。
長いことアイロンがけされていないスーツの下で、
ネクタイが少し左によれている。男性は無表情にショボンを見ていた。
(´・ω・`)「父さん?」
なぜ父がここにいるのだろう。
それ以前に、自分はなぜ見知らぬベッドで横になっているのだろうか。
疑問が脳を刺激した。記憶が甦ってきた。
杣矢川橋で妙な雰囲気を持った女性とすれ違い、彼女を助けようとして、
ハンドルを切ったトラックと衝突しそうになって――。
してみると、ここは病院だろうか。
病院だと思って考え直してみると、なるほど、先の印象に合点がいった。
手足を動かしてみる。どこにも異常はない。どこかが痛むということもなかった。
ただ少しだけ、頭が重たいように感じた。
父――シャキンの首が左側を向いていた。
ショボンも、シャキンの視線を目で追った。壁に時計がかかっている。
十一時三十分。事故から五時間近く経過しているようだった。
(`・ω・´)「平気か」
シャキンは時計に眼を向けたまま、そういった。ショボンは簡易な
返事をするしかなかった。シャキンは何もいわない。ショボンも話さない。
ふたりとも時計を見たまま動かなかった。秒針のない時計だった。
時間は遅々として進まなかった。
('∀`)「あ、目が覚めましたか」
部屋の入り口から、白衣を着た男性が女性を連れ立って入ってきた。
女性のほうは一目で看護士とわかる格好をしている。男性はおそらく医者だろう。
それもとても若い。親しげに浮かべた笑みには威厳がない。
代わりに、人の好さが自然に表れていた。
('∀`)「そのままでいいからね」
ショボンが上体を起こそうとすると、男性はそういって遮った。
そうして男性は、ショボンの体を診察しながら、具合はどうか、
どこか傷むところはないかと質問してきた。
ショボンは質問に答えながら、男性の胸にかかった名札を見ていた。
どうやらドクオという先生らしい。
触診が終わると、ドクオはシャキンに向かって話し始めた。
むつかしい言葉も織り交ぜていたが、つまりは問題ないということのようだった。
その中で、ここが梶岡病院という名前の場所だということも知った。
ショボンも知っている、割合近所にある病院だった。
('∀`)「何かあったらすぐに呼んでください」
ドクオは安心させようとしているのがわかるえくぼ付きの笑顔をよこしてから、
来たとき同様看護士を連れて去っていった。
部屋にはまた、ショボンとシャキンのふたりだけが残った。
シャキンは時計を見ている。そっぽを向いていて、話しかけづらかった。
(`・ω・´)「そろそろ、行くな」
シャキンは立ち上がり、しわのできたスーツを正した。
鞄を持ち、振り返ることなく部屋を出ようとした。
(´・ω・`)「父さん」
シャキンが止まった。
(´・ω・`)「その――」
言葉がのどもとまで昇ってきている。だが、最後の一押しが足りない。
躊躇してしまう。シャキンは動かない。ショボンの言葉を待っているようだった。
決心がつかない。しかし、何かいわなければならない。
掛け時計には秒針がない。時間が止まっていた。
(´ ω `)「ごめん、なさい」
(`・ω・´)「……うん」
分針が回った。シャキンは出て行った。
出て行くときも、シャキンはショボンとは目を合わせなかった。
三時を過ぎたころ、ドクオ先生が通路を歩いているのを発見した。
ショボンは思い切って呼び止めた。そうして、今から学校に行けないかと尋ねた。
('A`)「安静にしていてほしいんだけど、絶対に行かないとダメなのかな?」
(´・ω・`)「できるなら」
ドクオは悩んだ様子を見せた末に、条件付で許可した。
ちょっとでも異常と感じたら、いつでもいいのですぐに病院まで来ることと、
ドクオはショボンに誓わせた。ショボンもその条件に承諾した。
面倒な手続きは父が済ませてくれていたので、
ショボンは自分の支度をするだけですんだ。
運ばれていたときに着ていたジャージに着替えなおす。
学校指定のジャージなので、このまま登校すればいい。
少し恥ずかしい気もするが、授業に出るわけではないので、問題ないだろう。
ドクオは病院の入り口まで付き添ってくれた。納得し切れていないのか、
心配なのか、元々整ってはいない顔をしかめ、歪めている。一緒に歩いている間、
先生はまた先の条件を口にした。しつこいくらいに、何度も念を押された。
もしかしたら、医者としての経験が少ないのかなと、ショボンは思った。
二重になった自動ドアの先に、曇った外の景色が見える。
後はドクオに礼をいい、ここから出て行ってしまえばいい。
しかし、ショボンはそうしなかった。
先延ばしにした質問を、ここで訊き出さなければならない。
ドクオは不思議そうにショボンを見つめている。
なぜ出て行こうとしないのか、疑問に思っているのだろう。
ショボンは意を決した。
(´・ω・`)「あの、たぶん、ぼくと一緒に運ばれた人がいたと思うんですが、その、その人は……」
ドクオの顔が先程までとは異なる形で歪んだ。
しどろもどろに何かをいおうとしているのがわかった。
答は聴くまでもなかった。
ショボンはもう一度礼をいい、すぐさまその場から立ち去った。
正門横の看板に、金文字で文等中学校と彫り上げられている。
グラウンドではサッカー部が走り込みをしていた。
みな、ショボンと同じジャージ姿をしている。
顧問の先生が部員の一挙一動を鋭く監視していた。
よく怒ると評判の、怖い先生だ。何か言われるのではないか。
ショボンは見つからないよう注意して、校舎に潜り込んだ。
校舎内は静まり返っていた。どこからも人の気配がしてこない。
階段を登る。ショボンの目的地は三階にある。
二階から三階へ上がる途中で、声が聴こえだした。
ショボンは歩く。声は大きくなる。発信地の目前で、ショボンは立ち止まった。
扉の上部にプラカードが掲げられている。教室名は第二音楽室。合唱部の部室。
部活はすでに始まっていた。
発声練習をしているようで、威勢の良い声が聴こえてくる。
一際大きく響き渡っているのは、デレの声だろう。
ショボンは戸に手を掛けたまま、開けないでいた。
練習中に割り込むのはどうにも気が引ける。
ショボンはしばらくの間立ち尽くしていたが、
復唱の隙間を見計らい、途切れた瞬間に素早く滑り込んだ。
ζ(゚ー゚*ζ「ショボ!」
なるべく音を立てないようにした努力もむなしく、
デレの声で視線がいっせいに集った。デレを先頭に部員が集ってくる。
どうやらショボンが事故にあったことはすでに伝わっているようで、
大丈夫なのかとしきりに心配された。
ζ(゚ー゚*ζ「もう、次期部長にあんまり心配かけさせないでよー!」
从'ー'从「ただの候補だけどね〜」
ノハ*゚听)「候補なんですかっ!」
('、`*川「候補だァね」
ζ(゚、゚;ζ「ちがっ! 部長まで何言ってるんですか!」
ショボンを心配して集ったはずが、すっかりデレをからかう場に変わっていた。
女三人寄れば姦しいというが、四人集るともっとすごい。
ショボンはいつも翻弄されっぱなしだったが、
こういった和やかな雰囲気は嫌いではなかった。
いつもなら。
( ・∀・)「社長出勤のくせにずいぶんとゴキゲンだな、正規部員様方よ」
ショボンを囲んだ一団から距離を置いて、モララーが不遜な笑みを浮かべていた。
デレたちとは比べ物にならない人数が、モララーの周りに付き従っている。
( ・∀・)「俺たち臨時部員が真面目にやってる中、遅刻して迷惑をかけたんだ。
詫びがあってもいいんじゃないかね?」
ζ(゚、゚#ζ「あんたねえ!」
デレがモララーに噛み付いた。よく鍛えられたデレの声は、非常に大きい。
傍で聴いていると耳が痛くなる。密閉された教室内では尚更だ。しかしモララーは、
デレの怒声をまともに受けても眉一つ動かさず、涼しい顔をしていた。
( ・∀・)「なんだよお嬢様」
ζ(゚、゚#ζ「お嬢様って言うな! ショボは今日病院だったりなんだりで大変だったんだよ。
少しは考えてあげなさいよ!」
( ・∀・)「で?」
ζ(゚、゚;ζ「でって……」
( ・∀・)「遅れたのも迷惑をかけたのも事実だろう。理由になってないな」
ζ(゚、゚;ζ「だから、やむにやまれぬ事情ってもんが――」
(´・ω・`)「ごめんデレ、悪いのはたしかにぼくだよ」
ショボンはモララーとデレの言い争いに割って入った。
自分を取り囲むデレ、渡辺、後輩のヒート、部長のペニサスから離れ、
モララーの下に近づいていった。
多数の視線を感じる。好意的なものではない。中心に座するモララーの眼は、
その中でも一際強く突き刺さってきた。モララーはもう、わらってはいない。
視線の圧力に屈しそうになりながら、どうにかモララーの目前までやってこれた。
ショボンは、深く頭を下げた。
(´ ω `)「モララー、ごめん」
モララーの上履きが見える。
ショボンは下を向いたまま静止した。誰も何も言わなかった。
どれだけの時間が経過したのか、ショボンにはわからなかった。
モララーの足が、向きを変えた。
ζ(゚、゚;ζ「ちょ、ちょっと!」
デレの声が聴こえるより先に、大量の足音が右から左へと移動していった。
扉が開き、廊下へと出て行っている。モララーの上履きも、
ショボンの視界から消えていた。最後の足音が、扉の前で止まったのが聴こえた。
( ・∀・)「ヤムニヤマレヌジジョーで早退することにした。部長、構わないな?」
('、`*川「……すきにしてください」
( ・∀・)「ということだ。じゃあな、お嬢様」
ζ(゚、゚#ζ「お嬢様っていうな!」
デレの叫びは閉まった扉に叩きつけられ、残響音だけが残った。
ショボンは未だ、頭を下げ続けていた。まだそこに、モララーがいるような気がした。
('ー`*川「さ、練習再開しよっか!」
部長の声はひたすらに明るかった。滑稽だった。
ζ(゚、゚#ζ「あ〜も〜! 腹立つ!」
デレが力任せに筐体を叩いた。
ショボンは慌てて周囲を見回したが、こちらを監視している人は見当たらなかった。
部活の後、デレに連れられゲームセンターに寄ることになった。
ジャージ姿のまま寄り道などしたくなかったが、
怒り心頭に発したデレに逆らえるはずもなかった。
画面にはふたりの大男が映っている。
ショボンは詳しくないが、最新の格闘ゲームだということだった。
デレはお世辞にも上手とはいえないプレイヤーのようで、
操作するキャラクターは次々と攻撃を受けている。
瞬く間にライフバーが削れた。ルーズというコールが流れる。
ζ(゚、゚#ζ「次っ!」
デレは立ち上がり、別のゲーム台へと移動した。これで四度目だった。
今度は銃型のコントローラーを持ってゾンビを撃ち倒していく、
ガンシューティングに挑戦するようだった。
中々調子が良い。ゾンビの群れが一体二体と順々に倒れていく。
デレは真剣そのものだった。鋭い目付きで立ちはだかる敵を睨みつけている。
その内に膨らんだ肉がグロテスクな、巨大な敵が現れた。
このステージのボスだ。相手の隙をつきながら、何発も銃弾を撃ち込んでいく。
ζ(゚、゚#ζ「文化祭まで! もう! 余裕ないのにっ! シブ先は! 全然こっちこないし!」
デレは攻撃のたびに声を上げていた。
文化祭までもう間もないのに、こんなところで遊んでいていいのだろうか。
ショボンはそう思ったが、口にはしないでおいた。
ボスキャラクターとは接戦を繰り広げ、もう一押しで倒せそうだった。
しかしここにきて、ボスの行動が新しいパターンに変化した。
デレは対処することができず、画面いっぱいに巨大な肉塊が映しだされた。
(´・ω・`)「負けちゃった」
カウントがゼロになり、デモ画面に戻った。デレはコントローラーを持ったまま、
画面を見ている。反応しなくなった引き金の、安っぽい音を鳴らしていた。
ζ(゚、゚*ζ「ヒーちゃんもようやく慣れてきたのに……。
このままじゃ、部活に来たくなくなっちゃうよ」
弱々しい声でそういったかと思うと、今度は勢いよく振り返った。
ζ(゚、゚#ζ「だいたいショボもショボだよ。なんで言い返さないの」
デレの顔は怒ったままだった。あっちこっちへ当り散らした怒りが、
今はショボンに向いている。ショボンはうまく答えることができず、
言葉を濁すことしかできなかった。
ζ(゚、゚#ζ「もういい、太鼓の達人になってくる!」
デレはショボンを置いて、勝手にどこかへいってしまった。
その場につっ立っていると、見知らぬだれかとぶつかった。
その人は邪魔なものでも見るかのような目付きで、ショボンを睨んできた。
慌ててその場を離れた。
稼動した様々なゲームを眺める。色と音に溢れていて、居心地は良くなかった。
特に興味を持つこともできず、ショボンの思考は自然とデレの言葉を反芻しだした。
ヒーちゃんこと、ヒート。唯一の一年生部員で、
まったくの素人ながらも、持ち前の明るさでがんばっている。
素直ないい子だ。しかしまだ、人前で発表をした経験はない。
もし最初の体験で嫌な思いをしてしまったら、
合唱そのものに拒否感を覚えてしまうかもしれない。
辞めてしまうかもしれない。そうなったら、部にとっても死活問題だ。
なにより、ヒートに悪い。
だが、モララー相手に何ができるというのか。
モララーは臨時部員を完全に掌握している。それはそのまま、文化祭、
またその後に控える大会の可否が、モララーに握られていることを意味する。
そしてモララーに、それら発表を成功させる意識はない。
文等中学校合唱部では、毎年文化祭と、その三週間後に控える
高階市民会館での大会にて発表を行っている。
合唱部にはそれなりに長い歴史があり、昔は部員の数も多かった。
しかし運動部の活性化、吹奏楽部の台頭により次々と人員を奪われ、
今では部員も五人だけとなってしまった。それでも伝統を重んじる学校の方針により、
文化祭前のこの時期に臨時部員を募って、形だけでも見られるようにつくろっていた。
例年ならば部に所属していない者や、所属していても
まったく出てこない一、二学年の者を、内申点を餌にして強制参加させていた。
だが今年は、モララーがやってきた。モララーは自分に従う者を集め、
他の誰かが入る前に募集人員を埋めた。始めから、悪意を持ってやってきたのだ。
なんとかならないものか。ショボンは考えたが、そう簡単に打開策は思い浮かばなかった。
それに――。
思考が中断した。視界の端に何か、気になるものが映った。
それはUFOキャッチャーの景品の中にあった。
白いやわらかそうな毛をまとったぬいぐるみが、他の景品の間から頭をだしている。
これはなんだろうか。一見アザラシのようだが、
目と口らしき部分がずいぶんと中心の方に位置している。
申し訳程度に付けられた短い腕が、体の両側で“気を付け”しているのが
シュールといえばシュールだ。
かわいいとは思えない。そもそもぬいぐるみに拘りがあるわけでもない。
しかしショボンは、そのぬいぐるみがどうにも気になって仕方がなかった。
何か、どこかで、似たようなものを目にした気がする。
ζ(゚、゚*ζ「何かあった?」
いつの間にかデレが戻ってきていた。
帰ってくるのがあまりにも早かったので、つい、太鼓の方はどうしたのかと訊いてしまった。
ζ( 、 *ζ「私は、達人には、なれない……」
デレはいかにも哀れっぽい声をだして、悲しそうに顔を伏せた。
演技だということは一目瞭然だったが、堂に入った仕草がおかしくて、
ショボンはおもわず噴き出してしまった。顔を上げたデレも、わらっていた。
ζ(゚ー゚*ζ「あれはね、アラマキくんっていうんだよ」
(´・ω・`)「アラマキ?」
ζ(゚ー゚*ζ「アラマキくん。くんまでが名前」
どこかで見た覚えがあるのだと説明すると、
デレはアラマキくんについていろいろなことを教えてくれた。
女子中学生や女子高生の間でひそかなブームになっていて、
持っている子も多いのだという。
渡辺などは四つも五つも持っているらしい。
丸い体ととぼけた顔、それから豊富なバリエーションが、
人気の理由になっているとのことだった。
ζ(゚ー゚*ζ「ジョルジュもいつも持ち歩いてるんだって」
デレの言葉を聴いて、ジョルジュがアラマキくんを抱っこしている姿を想像した。
イメージにそぐわない。それは事実無根の噂なのではないかと、ショボンは思った。
ζ(゚ー゚*ζ「そうだ、私が取ったげる!」
いや、別にほしいわけじゃ――。
ショボンは断ろうとしたが、その間もなくデレは硬貨を投入していた。
ζ(゚ー゚*ζ「さっきはごめんね、変に当っちゃって。これはそのお詫びってことでさ。
大丈夫、デレちゃんの華麗なクレーン捌きに期待してなさい!」
デレは鼻歌でも歌いそうなくらいに生き生きとして、ふたつのボタンに手を置いた。
ボタンを押すと、天井に吊られたクレーンが水平に移動していった。
ここはお言葉に甘えて、見守ることに決めた。
ショボンが何を言おうと、デレは止まらないだろう。
なによりデレ自身が望んでいるのだから、止める理由がない。
クレーンの動きを注視した。
左右の動きが済み、今度は奥へと移動していく。それもまた、静止した。
(;´・ω・`)「あの、デレさん?」
デレは応えない。
(;´・ω・`)「充分気持は伝わったからさ」
クレーンがアラマキくんをつかんだ。
(;´・ω・`)「もう帰らない?」
落ちた。
落ちたのはこれで何度目だろうか。アラマキくんは初期の位置からほとんど動いていない。
デレは悔しそうな顔をしてアラマキくんを睨んでいる。
その表情からは、諦める気などまるでないことがうかがえた。
現に今も、財布を開いてお金を取り出そうとしている。
だがデレは、財布の中をまさぐったまま動かなくなった。
どうやら硬貨が尽きたようだった。ショボンは安堵した。
デレには悪いが、いい加減家に帰りたかった。
けれどデレは、ショボンの思う通りには行動しなかった。
ζ(゚、゚#ζ「両替してくる!」
デレは千円札を手に持つと、両替機の方へ駆けていった。
まだ帰るわけにはいかないらしい。ショボンは人ごみに紛れていくデレから、
アラマキくんへと視線を移した。それにしても変な顔だ。
なぜこれが人気になるのか、不思議だった。
デレは中々戻ってこない。何かあったのだろうか。
ショボンは手持ち無沙汰に、UFOキャッチャーを眺めた。
つかんでもつかんでも、結局は落としてしまう。
一向に出口へ近づいていかない。本当に狙ったものが取れるのか、疑わしかった。
ショボンは思い直した。実際やってもいないのに、批判するのはよくないか。
もしかしたら何か、コツが必要なのかもしれない。
コツさえつかめば、簡単に取れるものなのかも。
アラマキくんがこちらを見ている。デレはまだ戻ってこない。
ショボンは硬貨を取り出した。ダメで元々、一回だけ試してみるのもわるくない。
投入口に硬貨を押し入れた。
操作方法はデレを見ていたので理解している。
まず左のボタンで横に移動させ、次に右のボタンを押して奥に移動させる。
左右の移動は、ぴたり。理想どおりの場所へ着けられた。次は奥へ。
デレは中心を狙っていた。しかしアラマキくんの形を考えると、
若干頭の側に寄せたほうがよい気がする。慎重に操作して、止める。
クレーンが降りる。つかんだ。
後はもう、干渉することはできない。無事届けられることを祈って、眺めるだけだ。
しかし先程までの例を見るに、すぐに落ちてしまうことは明白だった。
クレーンが上がる。
クレーンは移動を開始した。意外なことに、アラマキくんは危なっかしくゆれながらも、
しぶとくしがみついている。前後の移動が終わり、左右の軌道に乗った。
それでもアラマキくんはゆれるだけだった。
あれ、おかしいな。
そう思っているうちに、クレーンはゴールまでたどり着いてしまった。
アラマキくんが投下される。
軽いものが転がる音が聴こえ、景品口までたしかに滑り落ちてきた。
白い毛は、想像通りのやわらかな肌触りをしていた。
ζ(゚、゚#ζ「あー!」
突然の叫び声に肩が跳ねた。デレの指がショボンを指していた。
苦笑いするしかなかった。
家の中は真っ暗だった。シャキンはまだ帰っていない。いつものことだ。
しかし今日くらいは早く帰ってきているのではないか、期待していたのも事実だった。
シャキンが朝食に使ったであろう食器を洗ってから、夕食の支度に取り掛かる。
お椀に浸された水が冷たい。
冷蔵庫を開く。徳福屋のシュークリームに手が伸びそうになるが、
これはまた別の機会に。賞味期限の近い食材を取り出し、適当に調理する。
何といって名前のない料理ができあがる。食べ終えたら、また洗う。
自室に戻って、アラマキくんをどこに置こうか迷う。
飾りたいとも思わないが、放置してしまうのもかわいそうだ。
もしデレにばれたら、今度こそ本気で怒られてしまうという下心もあった。
とりあえずは、机の端に寝そべっていてもらうことにした。
時刻はすでに七時半。臨時部員の問題があろうと、自主練習を怠るわけにはいかない。
ショボンは二つ折りの携帯電話を開いて、録音機能を起動させた。
頭の中で指揮の動きを思い浮かべ、それに合わせて歌いだす。
歌う曲は、今度の発表で使用するものだ。
ひとしきり歌い終わり、録音を止める。
携帯を操作して、再生できるようにした。録音した自分の歌声を聴かなければならない。
しかしショボンの指は、中々再生ボタンを押さなかった。
ショボンは画面を戻して、まずは昨日録音した声を聴くことにした。
歌声が流れる。ショボンは無表情なままで耳を傾けていた。その内に再生が途切れた。
今度こそ、今日の分を聴かなければならなかった。
のどをさすりながら、再生ボタンを押した。
また、声が低くなっている気がする。
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