1-2



ショボンが担当しているのはアルトパートだった。
今回の歌では、重要なポイントを担っている。変更はきかない。
ショボンにしても変更する気などなかった。だが、いまは。

ショボンの声は日に日に低くなっていった。
誰にでも訪れる声変わりだと言うことは理解している。だが、ショボンにとっては、
そんな紋切り型の台詞で切り捨てられる問題ではなかった。
どこまで下がるのか、いつまで保てるのか。見通すことはできなかった。

のどを握る手に力がこもっていることに気がつき、慌てて離した。
嘆いていても仕方ない。今はただ、練習するしかない。ショボンは携帯を閉じた――。

夢中になって練習している間に、九時を回っていた。いけない。
ショボンは慌ててテレビをつけた。チャンネルを『相克のハルカタ』に合わせる。


画面ではジョルジュが、地下水道にて反杉浦連合と接触している場面が映っていた。
先週のあらすじには、なんとか間に合ったようだ。

『相克のハルカタ』とは毎週放映されているドラマで、ショボンは欠かさず見ていた。
むつかしく理解しづらい内容も含まれていたが、
それを補って余りあるスリルを感じられた。

そういえばと、ショボンは机に置かれたアラマキくんを見た。
デレはジョルジュもこれを持ち歩いているといっていた。画面上のジョルジュを見る。
やはり結びつかない。もっとスマートで、かっこいいイメージだ。

床に寝転がり、膝を曲げた。まだ筋トレは終わっていない。
テレビを見ながら、腹筋も済ませてしまおうと考えた。
一、二と数えつつ内容を理解するのは、至難の業だった。




(´・ω・`)「あれ?」

目の前にアラマキくんがいた。
枕の横に寝そべっている。どうしてこんなところに。

それ以前に、自分はいつの間に眠っていたのか。
たしか『相克のハルカタ』を見ながら腹筋をしていて、
二セット目が終わって少し休憩していたところで――。

そこまで考えて、ショボンははたと気がついた。
陽が完全に昇りきっている。慌てて時間を確認した。八時半を過ぎている。
おかしい。いつもなら五時前には自然と眼が覚めるのに。

悠長に考えている暇はなかった。遅刻だ。
取るものも取り敢えず、制服に着替え、走って学校へ向った。


「それで昨日の相克でさ――」

「やっぱりビロよりジョルジュだよね――」

クラスメイトが談笑しているのを他所に、ショボンは配膳された給食をつついていた。
班ごとに机を固める給食の時間は、食事よりもおしゃべりの方がメーンになる。
話題のドラマが放送された翌日などは、特に顕著だ。

『相克のハルカタ』に関する情報が、ショボンを越えて次々と飛び交っている。
杉浦は全部気がついているのではないか。フォックスがついに動き始めた。
気になる話ばかりだ。ショボンもいつもなら、積極的に参加している。
だが今日は、そういうわけにはいかなかった。

「ショボどったの? 具合悪い?」

(´・ω・`)「ううん、大丈夫だよ」

ショボンが黙りこくっているのを不審に思ったのか、
クラスメイトのひとりが声をかけてくれた。
ショボンが事故に合ったことは、クラスメイトにも知れ渡っていた。
そのためか、事故の影響で元気がないのかと勘違いしているようだった。


事故の後遺症といえるような現象は、今の所何もない。
ショボンがおしゃべりに加われない理由は、まったく違うところにあった。

昨夜見たはずの内容が、まったく思い出せないのだ。
腹筋をして、休憩して、最初のCMを見たのは確かだった。
しかしそこからの記憶が完全に途切れている。テレビの内容だけではない。
風呂に入ったのかも、いつベッドに潜ったのかもわからない。

ハルカタの話題はジョルビロ談義に移っていた。結果はわかりきっている。
ビロードよりも、ジョルジュの方がはるかに人気がある。

容姿にしても、演技にしても完全にビロードを喰ってしまっている。
ジョルジュの演技は、初主演だとは思えないほどに堂々としていた。
噂では演劇出身で、少し前まではこの街にいたらしい。
熟達した演技力は、演劇のほうで培ったものだという。


ショボンは半端に意識を向けながら、
あやふやな思考の中で自身の空白の時間についても考えた。
といって思い当たることがあるわけでもない。なんとはなしに考えているだけだ。
しかし何か、何か重要なことを見落としている気がした。

「ところでさ、昨日杉浦が持ってたあの赤いハンカチって――」

(´・ω・`)「赤?」

つい声が漏れてしまった。
ショボンは手を振って、何でもないと誤魔化した。
けれど本当は何でもないということはなく、赤という単語が妙に気にかかった。

赤。赤色。強い印象として、赤い何かが残っている。
しかしそれ以上は、いくら考えても思い出すことはできなかった。

 




部活の時間になった。ふたり一組になって、柔軟運動を始める。

ζ(゚、゚*ζ「昨日さー」

デレがショボンの背中を押しながら話しかけてきた。
ショボンは大抵いつも、デレと組んでいる。
伸ばした足に向って折り曲げた背中へ、デレの体重が乗っかってきた。

ζ(゚、゚*ζ「メール送ったんだけど、気づかなかった?」

背中の重みが増した。ショボンは息を吐き出して、さらに腰を曲げた。
デレにいわれて気がついた。今日は携帯を持ってくるのを忘れていた。
昨日録音に使ったきり、放置してしまっている。

携帯を学校に持ってくるのは校則違反になっているが、みんな隠れて持ち歩いている。
先生も知っていて黙認している。授業中に鳴ったときに、没収するくらいだった。


学校にいても、ちょっとした用事をメールで済ませてしまう子は少なくない。
デレもその中のひとりだった。何の用事だったかはわからないが、
ちょっと悪いことをしてしまったかもしれない。

ショボンはそう思い、謝ろうとしたが、それは叶わなかった。
背中にかかる重圧が、ショボンの背を砕かんとばかりに威力を増してきていた。

(;´・ω・`)「痛い、デレ、デレさん、痛い、痛いです、痛いです!」

ζ(^ー^*ζ「ショボのせいで恥かいちゃったんだもん。仕返しだ〜!」

――交替。

今度はショボンが、デレの背中を押す。
一回一回反動をつけるようなやり方ではなく、
一分間じっくりと伸ばし続ける方法を取っている。
これは部長の指示で、こちらの方が効果があるとのことだった。

部長は臨時部員に混じって指導している。
臨時部員も、基本的には真面目に部活へ参加していた。
実際に歌わせてみても、声量は一定以上あり、
音を外していると明らかにわかるような者もいなかった。

だからこそ性質が悪かった。まったく戦力にならないのなら、
初めからいないものとして対処することができる。なまじ実力があるから、
期待もしてしまう。モララーもそれを狙っているのだろう。
まともな顧問がいれば、少しは違ってくるのだろうが。

ζ(゚、゚*ζ「シブ先、今日も吹奏楽の方だって。顧問としての自覚、あるのかしら」

力のかかり具合などからショボンの考えを察したのか、
デレは残った息を吐き出しながら渋澤のことを口にした。
潰れた声色には、不平の感情が表れている。


(´・ω・`)「仕方ないよ、あっちにとっても文化祭は重要な行事なんだから。うちと違って大所帯だし」

ショボンから見えるのはデレの背中だけだが、
ふくれっ面をしているのは容易にわかった。賛同してほしかったのだろう。
ショボンが余計なことをいったのが気に喰わなかったに違いない。

渋澤、デレがシブ先と呼ぶ先生は、吹奏楽部と合唱部の顧問を兼任している。
変わったところのある先生で、癖も多いが、音楽のことを理解しているのは
学校中でもこの人しかいなかった。

実のところショボンも苦手ではある。
しかしデレの場合はそういう次元ではなく、はっきりと蛇蝎のごとく嫌っていた。

デレはすっかりへそを曲げてしまっていた。敵の味方は敵ということだろうか。
時期部長候補は、こういうところが子どもっぽい。残り時間はあと十秒ほどだった。
ショボンはデレの背中に体重を乗せた。 

ζ( 、 ;ζ「うえっ! いた、ショボ、いたっ、やめえっ!」

(´・ω・`)「おかえし」


部長の号令が聴こえた。柔軟は終わり、今度は発声練習を行う。
部員同士が横に並び、ひとつの大きな円を作る。まず部長が
「あえいうえおあお」と声を張る。その後に、全員が合わせて復唱する。

部長の番が終わったら、次は右隣の人――今日は渡辺が
「かけきくけこかこ」と声を張る。それをまた復唱する。
このようにしてさ行、た行と順番に繰り返していく。

これを円が一周するまで続けるのが、合唱部での発声練習になっていた。
デレ、ショボンと終わり、ヒートが少しばかり気の張りすぎた声を上げた。

問題はここで起こった。
臨時部員がヒートの後に続かず、口を閉じて声を出すことを拒否したのだ。


ヒートの隣にいた臨時部員の番になったが、これも声を出さない。
どういうことかと戸惑っていると、今度は一斉には行の部分を合唱した。
そしてまた沈黙する。かと思うと、また合唱部分だけ声を上げる。
沈黙、合唱と、おかしなサイクルが確立していた。

ヒートは今にも泣きそうな顔をしていた。
な行の復唱を飛ばされたのが、自分のせいだと思っているのかもしれない。
それは間違いだ。ショボンは臨時部員の中心で佇んでいるモララーを見た。
すました顔で、他の声に合わせている。

('、`*川「ストップ! 待った、止まって――」

部長が言い終わる前に、合唱は瞬時に止まった。不気味な静けさだった。
部長もたじろいでいるようだった。それでも気丈に、諭すような声で話しかけた。

('、`*川「ちゃんとしたやり方じゃないと、効果はでないんだよ。
  こういう練習がばかばかしく感じるのかもしれないけど、全部意味があるんだ。
  人前で、ひとりで声を張り上げるのは恥ずかしいかもしれないけど、な、ちゃんとやろうぜ」

部長の言い方は押し付けがましいものではなく、
かといって過剰に哀切な感情を出しているわけでもなかった。
臨時部員の間にも、動揺が広がっているのが見て取れる。
このまま収束しそうな流れだった。

しかし、そんな展開を彼が許すはずもなかった。


( ・∀・)「部長、それは勘違いですよ」

モララーが円の外郭から、中心部へと躍り出てきた。
すべての元凶であることは明白なのだが、まるで臆するところがない。
自信に満ち溢れた動きからは、それだけで人を従わせる雰囲気が滲み出ている。

( ・∀・)「なにぶん、我々もまだ慣れ切ったわけではないのでね。
不手際があったのには謝りますよ。しかしわざと場を乱したようにいわれるのは、
少々心外ですね」

ζ(゚、゚#ζ「なによ、どうせあんたの差し金じゃない!」

( ・∀・)「言いがかりはよくないな、お嬢様」

デレが何か言うのを軽くいなして、モララーはショボンの方へ向き直った。
口元には笑みを浮かべている。だが視線が、モララーの本心を表していた。
ショボンは逃れることもできず、圧倒されるがままになっていた。

( ・∀・)「俺たちはね、自分さえ歌えれば後はどうなろうと
構わないなんて考えている奴とは、違うんですよ」

それは、真っ直ぐショボンへと向けられた言葉だった。
部長もデレも、他の誰も、どんな意味が含まれているのか理解していないだろう。

ただショボンだけが、その言葉の意味するところを飲み込んでいた。

 



 
家に帰ってこれた。妙に疲れていた。
あの後は面倒が起こることもなく、表面上は何事もないままに進行した。
けれど張り詰めた雰囲気が異様な緊張を促してきて、変に肩がこってしまった。

すぐに眠ってしまいたい。
しかしそういうわけにもいかない。今朝はランニングもできなかったのだ。
せめて自主練習だけでも済ませてしまわなければならない。自室に戻った。

荷物を降ろし、ベッドに座って一息ついた。
ベッドのやわらかさに、このまま横になってしまいたい誘惑にかられた。
疲れのせいだろうか、いやに眠い。遅刻するくらいに寝すぎたというのに。

体が沈む。肘を立て、かろうじて倒れることを防いだ。重みでベッドが波打つ。
そのとき、視界の端で何か動くものが見えた。そこにはアラマキくんが寝転がっていた。

そういえば、今朝起きたときにも枕の横に置かれていたのを発見した気がする。
昨日は机の上に置いておいたはずなのだが、いつのまに持ってきていたのだろう。


アラマキくんをつかみ、起き上がった。大きく伸びをする。
あまりベッドの周りをごちゃごちゃさせたくない。元の場所――机の上に戻そう。
そう考え、ショボンは机の前まで歩いた。

だがショボンは、アラマキくんを置く前にもうひとつの忘れ物を発見した。
机の上で、携帯が開いていた。そこでようやく、デレからメールが送られていたこと、
そもそも持っていき忘れていたことを思い出した。

ショボンは手を伸ばした。だがそのとき、はたと気がついた。おかしい。
なぜ携帯が開いているのか。昨日録音に使ったとき、たしかに閉じたはずなのに。
記憶が正しければ、それ以降は触っていないはずだった。

持ち上げて、表や裏側を見回した。別段壊れているところは見当たらない。
慎重にボタンを押してみる。ディスプレイが光った。
そこに現れたのは、いつも目にしている待ち受け画面ではなかった。

ずらりと文字が並んでいる。なんだこれは。ショボンは一度携帯を閉じた。
目をつむり、深呼吸をして、もう一度開いた。画面は変わらなかった。
心臓が嫌な跳ね方をしている。目を逸らすこともできず、漠然と画面を眺めた。


するとそこに、気になる単語を見つけた。ジョルジュ。
なぜここにジョルジュの名前が書かれているのだろう。
そう思い上から読んでいくと、どうもこれは『相克のハルカタ』について
書かれた文章なのだということが判明した。

それも昨日、ショボンが見損ねた回の内容が書かれていた。
赤いハンカチ、フォックスの陰謀の示唆。読みやすくわかりやすい文章で、
クラスメイトが口にしていた話題がショボンにもよく理解できた。

自分でメモしたのか、なぜ携帯に書いたのか。
疑問はとめどもなく溢れてきたが、それよりも助かったという気持ちが先に立った。
『相克のハルカタ』というドラマは内容が複雑で、
一話見逃すと話しについていけなくなるおそれがあった。

『相克のハルカタ』にはふたりの主人公がいる。若き政治家秘書のビロードと、
その政治家に母を殺されたジョルジュという青年のふたりだ。

話はジョルジュが、母の仇である大物政治家杉浦ロマネスクを
刺そうとするところから始まる。ジョルジュはSPの目を掻い潜り杉浦の目前まで迫るが、
突如飛びだしてきたビロードと強く衝突し、犯行は失敗に終わってしまう。


ジョルジュのナイフはビロードに突き刺さっていた。
ビロードは意識が朦朧とし、その場に座り込んだ――はずだった。
気がつくと、目の前に血を流して座り込んでいる自分がいた。

自体が飲み込めず狼狽していると、目の前の自分が「逃げろ!」と叫んだ。
気が動転していたのも手伝って、ビロードは弾かれるようにしてその場から逃げ去った。

追っ手を振り切り呼吸を整えていたビロードは、ガラスに映った自分を見て青ざめた。
顔が、格好が、自分を刺したはずの男のものになっていた。

一方ジョルジュは、激痛にのたうちながらも
自分に起こったことの凡そを把握していた。理屈はわからないが、
あの衝突により自分とこの体の青年の精神が、入れ替わってしまったらしい。

これはチャンスかもしれない。この体の立場を利用して、
怪しまれることなく杉浦を殺せるのではないかとジョルジュは考えた。
しかし危惧することもあった。
自分の体の持ち主は、うまく逃げ切ることができただろうか。


細面の、気の弱そうな若者だった。自分の狙いは杉浦ひとりで、
他の人間に危害を加えるつもりはなかった。彼に落ち度はない。
完全なとばっちりだ。どうにか助けなければならない。

そのためにも、ここを生き延びる必要があった。
血はいまだに止まることなく、体は急速に冷えていった。
ジョルジュは自分に活を入れた。死ぬわけにはいかない。死んでたまるか。
そう思いながら、意識を失った。

その後、ジョルジュとなったビロードは警察や暴力組織の追跡を逃れつつ、
反杉浦を掲げる組織と接触することになる。組織には杉浦に地位や名誉、
肉親を奪われた者たちが集っていた。

杉浦を父のように慕っていたビロードは、知ることのなかった事実に直面し、
自らの価値観に疑問を抱きだす。それでも杉浦のことを
疑いきれないビロード――ジョルジュは、反杉浦連合と行動を共にするも、
独自に真実を追究していく。


そのころビロードとなったジョルジュは、なんとか一命を取り留めていた。
ジョルジュは怪我をおしてビロードの役割を担った。杉浦の隙をうかがうことと、
自分の体に関する情報を得ることが目的だった。

ビロードは元々雑用ばかりを任されていたようで、
ジョルジュでもすぐに仕事を覚えることができた。
しかしこのままでは杉浦との距離が遠いいと、
与えられた仕事とは異なる行動を行なっていく。

ジョルジュの提案はことごとく的中し、次第に頭角を現していった。
その過程で、ジョルジュはビロードが、杉浦に我が子のように愛されていたことを知る。

非道の王だと思っていた杉浦にも、ごく普通の人間的感情があることを知った。
ジョルジュ――ビロードは、杉浦のことを本当に殺してしまってもいいのかと、
戸惑いを覚えていく。

しかしビロードが戸惑っているうちに、
杉浦の第一秘書であるフォックスが、ビロードの異変に感づき始めていた。

フォックスは自尊心と猜疑心の強い男で、常からビロードのことを快く思っていなかった。
フォックスの画策により、ふたりの秘密は徐々に暴かれていくことになる。


これがストーリーの基本ライン。他にも杉浦の政敵との争いやフォックスの陰謀、
ジョルジュに好意を抱いていた女性の奔走など、さまざまな要素が盛り込まれている。
話の転換点が多いため、一度付いていけなくなると
そのまま置き去りにされてしまうことは間違いなかった。

ショボンはもう一度携帯の文章に目を通した。要点をうまく捉えた、良いまとめ方だ。
自分で書いたのなら、これ以上ない出来だといえる。
問題は、思い当たる節がまるでないということだけだった。

携帯を閉じた。やめよう。怪談に出てくるような、
呪いの文章が羅列されていたわけではないのだ。きっと無意識に自分でメモしたのだろう。
思い出せないのは、事故などのせいで疲れていたからに違いない。

閉じた携帯を机の上に置いた。
そしてアラマキくんも、昨日置いたのと同じ場所に寝かせた。
ショボンは一歩下がって、机全体を見回した。携帯は閉じている。
アラマキくんは寝そべっている。たしかに間違いないと、よく記憶した。

いつの間にか眠気は飛んでいた。体を慣らして、トレーニングを開始した。

 



 
(;´・ω・`)「うそ」

目の前にアラマキくんがいた。枕の横に寝そべっている。
窓からはよく晴れた陽の光が差し込んでいた。ショボンは跳ね起きた。
窓の外を直視してから、目をつむった。まぶたの裏に朝陽の残光が赤く焼きついている。

これではない。

ショボンは見た。赤。赤色。赤い印象。昨夜、九時を少し回っていた。
トレーニング中に突如、赤色が視界を覆った。
色そのものに重みがある、不可思議な感触だった。

物理的に赤いものを押し付けられたわけではない。
目をつむったときに見える残光のように、
網膜に焼きついた刺激が浮き上がってきているように感じられた。

そして、そこから先の記憶が完全に紛失していた。



机のそばへ駆け寄った。携帯が開いている。昨夜は閉まっていることを確認した。
閉め忘れた、ということはありえない。めまいがしそうになる。
父の仕業だろうか。いや、そんなことは考えられない。

誰かのいたずらだろうか。しかしこんないたずら、わざわざするものだろうか。
モララーだって、ここまで面倒なことはしない。
そもそも気づかれずにできるとも思えない。

携帯は節電のために、光を失っていた。とにかく確かめてみなければ始まらない。
昨日と同じなら、何かが書かれているはずだ。ショボンは携帯を手に取った。
ふるえて、うまくボタンを押せなかった。

ディスプレイに明かりが点った。書かれている文章が、目に入った。


『シュークリームおいしかった』

シュークリーム、おいしかった。
予想していた不吉な内容とはほど遠い、実に素朴な一言が表示されていた。
脱力感を覚えた。いったいこれを書いた者に、どんな目的があったのか。

何度読んでも、シュークリームおいしかった。
特別な意味が込められているとは思えない。しかしなぜ、シュークリーム。
たしかにシュークリームはおいしいが、なぜそれを選んだのだろう。

そこまで考えたとき、瞬間的に、あることを思い出した。

(;´・ω・`)「まさか」

自室から飛び出て、台所へ駆け込んだ。
冷蔵庫を開き、中のものをくまなく、隅から隅まで漁りつくした。

(;´・ω・`)「な、ない!」

たのしみに取っておいた徳福屋のシュークリームが、ない。
どう探しても、冷凍庫のほうを開けても見つからない。冷蔵庫から離れ、
台所中を見回したそのとき、シンクの三角コーナーに
折れ曲がった透明なセロファンが放り込まれているのを発見した。

セロファンには、生クリームの付着した跡が残っていた。

 



 
緊張した空気の中、全員合わせて通しで歌った。妨害や何かに怯えることなく、
歌うことに集中して歌うのは、ずいぶんと久しぶりだった。ただの練習と、
人前で歌うのとでは、緊張感がまるで違う。たとえ聴き手が、ひとりでも。

部活中の第二音楽室へ、唐突に渋澤が現れた。
渋澤は入室するやいなや「出来具合を聴かせろ」といって椅子に座った。
目を閉じ微動だにしない姿は、眠っているようにも見える。

ペニサスは渋澤の言葉に従い、部員を並ばせた。
本来の役割を放棄した渋澤の代わりに、ペニサスが指揮を執る。
渋澤は何もいわない。早く始めろと催促もしない。
それが逆に、無言の圧力を生みだしていた。ペニサスが指揮棒を振った――。

合唱が終わっても、渋澤は目を閉じたまま話しださなかった。
その間だれも、モララーでさえも動くことはなかった。息をすることすら憚られる。
声に出さずとも、渋澤を除くすべての者が、渋澤が口を開くの待っているのがわかった。


  _、_
( ,_ノ` )「ショボン」

背筋からつま先にかけて、気色の悪い電流が走った。
  _、_
( ,_ノ` )「おまえたしか、自分からソロパートに志願したんだったな?」

その通りだった。
  _、_
( ,_ノ` )「だったら、何で声を出さない」

ショボンは答えられない。
  _、_
( ,_ノ` )「俺は実力主義だ。実力のある奴は重用する。贔屓もする。平等なんてクソ喰らえだ」

威圧的な物言いからは、教え諭すなどという生易しい響きはまるで感じられない。
  _、_
( ,_ノ` )「それじゃあ実力ってなんだ? 結果だろ。結果で示すもんだ。
過程でいくら努力しようと、結果を出さなけりゃクズだ」

中学校の教師がこんなことを言って、許されるのだろうか。


  _、_
( ,_ノ` )「だがな、実力者の中に、努力知らずでやってきた人間を、俺は知らん。
才の有無に関係なく、あいつら例外なく努力してやがる」

あいつらとは吹奏楽部の人たちを指すのだろうか。
  _、_
( ,_ノ` )「努力って言葉の意味、わかるか? とにかくがむしゃらにがんばりました。
よくわからないけど時間だけはかけました。アホか。これはな、努力じゃねえぞ。
徒労っつうんだ。努力ってのは、身を入れるってことだ。考えると共に、集中するってことだ」

……耳が痛い。
  _、_
( ,_ノ` )「気もそぞろで歌なんか歌えるか。音楽嘗めるのもいい加減にしろ」

言いたいことだけ言い切ると、渋澤は来たとき同様唐突に帰っていった。
練習を見るという考えはまるでないようだった。

渋澤の言いたいことはわかった。納得もできた。
だがしかし、具体的にどう行動すればいいのか。

正しい努力を知らないのだ、急いた気持ちに追い立てられたら、
徒労だとわかっていても縋り付くしかないではないかと、反感も覚えた。


ζ(゚、゚*ζ「気にすることないよ、あんなの」

デレが声をかけてきた。いつの間にか、部屋の中が話し声で溢れていた。
渋澤が去ったことで空気が弛緩したのだろう。デレは渋澤についての不満を述べている。
本当にいやなやつだとか、偉そうなことを言うなら普段から手伝えとか。

(´・ω・`)「うん、でも、一理はあるから」

ζ(゚、゚*ζ「……いいけどさ、ショボが気にしてないなら。
たしかに最近、眠そうだもんね。隈なんかできちゃってるし」

ショボンは慌てて目元を押さえた。隈ができているとは気がつかなかった。

ζ(゚、゚*ζ「それに、何か変な噂できてるよ」

(´・ω・`)「噂?」

目の周りをほぐしながら尋ねる。

ζ(゚ー゚*ζ「うん。なんかね、ショボが深夜に徘徊してるらしいって、ナベがいってた」

从'ー'从「なになに、呼んだ〜?」

ノハ*゚听)「なんですかっ、おもしろい話ですかっ!?」


デレの言葉に反応して、渡辺とヒートもやってきた。
渡辺はデレから説明を受けると、自分が見たわけでは
ないのだけれどと前置いて、話し始めた。

渡辺の兄の友人で、近くの病院に勤務している若い男性がいる。
その人は渡辺にとてもよくしてくれていて、ごはんに連れて行ってくれたり、
ちょっとした小物などを気前よく買ってくれたりするらしい。

渡辺が合唱をやっていることも知っており、
発表の日には同僚や友人を連れて必ず聴きに来るのだという。

从'ー'从「まあ、その人はどうでもいいんだけどね」

ショボンを見たというのは、その男性に連れられて昨年の合唱を聴きに来た、
また別の男性だった。渡辺はその男性とも付き合いがあり、
この間一緒に食事をしたときにショボンの話を聴いたのだという。

要するに兄の友人の友人から聴いた、とても信憑性の薄い話ということだった。
安堵の息が漏れた。

(´・ω・`)「それ、人違いだよ。たぶんぼくのことなんてよく覚えてなくて、
   他のだれかと勘違いしたんじゃないかな」

ショボンが弁明するのとほぼ同時に、景気のいい破裂音が響いた。
ペニサスが手を鳴らしていた。

('、`*川「はいはい、おしゃべりはそこまで。練習再開するよ」

 



 
部活が終わり、デレと一緒に帰った。
デレは何やら話しかけてきたが、ショボンは生返事しか返せなかった。
頭の中は考えごとに埋め尽くされていて、世間話に興じる余裕がなかった。

渡辺の言っていたことは、おそらく正しい。
ショボンの体は深夜のうちにどこかへ出掛け、朝方になってからベッドへ潜り込んでいる。
ただそれを、自分の意思で行っているわけではないというだけのことだった。

赤い印象から始まる一連の怪異は、いま現在も続いていた。
毎朝眼が覚めるとアラマキくんが枕元に置かれてあり、
開いた携帯には律儀にメッセージが残されていた。

このメッセージの主人――仮にAとする――は、どういうわけか、
我が家の食料を勝手に消費していた。よくあれはおいしかった、
あれはそうでもなかったと、聴いてもいないのに書かれている。


そこまではいい。家の中の物を使っている形跡があるのも、この際置いておく。
問題は、ショボンの生活がAに筒抜けになっていることだった。
毎朝のメッセージの中に、ショボンやショボンの行動に言及しているものがあった。

その書き方が、どうも、外側から見ているという感じがしない。
ショボンと同じ視点で、ショボンの見たものを語っている感じがする。

またAは、ショボンが起きている間に行動することはないようだった。
食料にしても携帯にしてもアラマキくんにしても、
ショボンが赤い印象を目にして意識を失って以降に、変化が起きていた。

つまりAの行動時間は、九時を過ぎてからショボンが目を覚ますまでの間、
ということになる。それに連動する形で、ショボンの睡眠不足は深刻化していった。
まるで、深夜中遊びまわっているかのように。

同じ視点を共有しているとしか思えないメッセージ、解消されない眠気、
その他様々な条件を考慮した上で、ショボンはひとつの結論を導いた。

Aは、ぼくの中にいる。


……そんなことありえるのだろうか。
しかしいまはもう、それ以外の考えが思いつかない。
だがもし、仮に、この結論が正しいとしたら、原因はなんなのだろうとショボンは考えた。

瞬間的にひとつの案が思い浮かんだ。すぐに振り払った。
荒唐無稽に過ぎる。いくらなんでも、毒されすぎているだろうと自嘲した。

ショボンは自分の身に起った出来事を、順々に思い出していった。
さほど時間もかかることなく、ひとつの大きな事件に思い至った。
交通事故。最近あった大きな転換点といえば、これ以外にない。

そうやって考えてみると、異変が起り始めたのも
交通事故に遭ってからだったように思えてくる。
他に候補がない以上、交通事故が原因だと決定してよいように思えた。

だが、そこで行き詰った。
仮に交通事故が直接の要因だったとしても、なぜAが発生したのかがわからない。
そもそも、自分の中に異なる人格が住み着いているという事態が、理解を超えている。



俗にいう、二重人格というものだろうか。
二重人格だとして、これは治るものなのだろうか。
ショボンには見当もつかなかった。
ただ治るという言葉から、また別のことを思い出していた。

交通事故に遭った際に担当してくれた先生――ドクオは、
何かあったらすぐ来るようにといっていた。あの人に頼るのはどうだろう。
治療できないまでも、原因くらいは判明するかもしれない。

ショボンはそう考えて、すぐに否定した。医学が発展したといっても、
そうそう簡単に解明できる問題だとは思えなかった。病院に通うことになれば、
時間も、お金もかかる。当然、父の知るところになる。それは、望ましくない展開だった。

結局、交通事故が原因で二重人格になってしまったという程度のことしかわからなかった。
それにそれも、正しいという保証はない。つまり、何も進展がなかったも同然だった。

ショボンは考えることを放棄した。いい加減、頭がどうにかなってしまいそうだった。
幸いAに、危害を及ぼそうとする意思などは見受けられない。眠気は問題だが、
他に危険がないのなら、しばらくはなりゆき任せでよいのではないかと思った。


ショボンはデレとの会話に話を合わせた。あまり気のない返事を続けて、
不機嫌になられてもつまらない。それにデレとの会話は、くだらなかったりもするが、
単純にたのしい。沈みがちな心のバランスを保つには最適だった。

ふと、デレにすべて打ち明けたらどうだろうかと思いついた。
中々悪くない考えのように思える。
デレはきっと、親身になって話を聴いてくれるだろう。
何かが解決するわけではないが、吐き出すことで気は楽になりそうだった。

とはいえ、不安もある。
もしかしたら変人と思われ、壁を作られてしまうかもしれない。
デレに限ってそんなことはないと思うが、何事も絶対はない。

言うべきか、言わないべきか。デレは話し続けている。
笑顔のデレを見ていると、信用していい気がしてくる。
それでも後一歩が踏み出せず、ショボンは取り留めのない話に花を咲かせた。


十字路にまでやってきた。ショボンは左へ、デレは右へ帰り道が続いている。
ショボンはまだ決めかねていた。どうすればよいのか、判然しない。
しかし悩んでいる間も、時間は進んでいく。

デレが別れの挨拶をしてきた。ばいばい、また明日。
無視するわけにはいかないと、ショボンも返した。うん、また明日。
違う、そんなことをいいたいわけじゃない。

そうこうしているうちに、デレは歩き出していた。
二歩、三歩と離れていく。変に気が急いていた。
もう、今しか機会がないようにすら思えた。

(;´・ω・`)「あ、デレ!」

ζ(゚ー゚*ζ「うん?」

デレが振り返った。呼び止めてしまった。
まだ決心がついたわけではないというのに。デレが小首を傾げた。
ショボンが話し出すのを待っている。何か言わなければならない。
どうしようか。デレは、いい子だ。


(;´・ω・`)「そのね……」

言ってしまおう。
大丈夫、誤魔化さず順を追って話していけば、デレならきっと信じてくれる。
だから言ってしまおう。

しかし頭で思うのと、実際に口に出すこととの間には、大きな隔たりがあった。
言おう言おうと意気込んでも、どうしても言葉が出てこない。
そうして躊躇している間に、恥ずかしさが増してきた。ショボンは顔を逸らした。

(;-_-)「あ」

小さな声が、静かな住宅街に拡がった。
ショボンが顔を逸らした先、ショボンとデレがやってきた道に、少年が立っていた。
モララーに付き従う臨時部員のひとりで、名前はヒッキー。
学年はヒートと同じ、一年だった。


ヒッキーは電信柱から顔を半分出した、いかにも尾行していますという格好をしていた。
見つかる事態を想定していなかったのか、挙動不審に右往左往している。
モララーの命令で来たのだろうか。人選を誤っている気がした。

ζ(゚、゚*ζ「何か用かな?」

ショボンより先に、デレが訪ねた。言い方に棘があった。
ヒッキーはさすがに隠れることを諦めたのか、電信柱から身を出した。
小柄な体が、縮こまってより小さくなっている。
弱々しいその姿のせいで、こちらが苛めているように錯覚しそうだった。

ヒッキーはうつむいて何もいわない。デレの視線は鋭い。
ショボンは立ち居地を決めかねていた。するとヒッキーが、上目遣いでこちらを見ていた。
しかしショボンと目が合った途端、また視線を地面へとやってしまった。

用があるのはぼくの方だろうか。ショボンは思った。
あるいは自分がひとりになったときに、声をかけてくるつもりだったのかもしれない。
たまたまショボンが立ち止まり、発見されてしまったせいで、予定が狂ったのかもしれない。


(´・ω・`)「あの、ヒッキーくん」

このままでは埒が明かないと、ショボンから声をかけた。
ヒッキーはたしかにモララーの子分だが、
このまま煮え切らない場に置き続けるのはかわいそうに思えた。

ヒッキーはおそるおそるといった様子で、顔を上げた。
ヒッキーの視線が、ショボンと向き合った。

しかし、視線はそのまま横へと滑った。滑って、止まった。目が見開いている。
その表情は、何かに驚いているように見えた。その何かは、ショボンの背後に存在した。
振り向いた。

( ・A・)「何をやっている」

そこには、モララーがいた。
十字路の上下左右をそれぞれ、ショボン、モララー、
デレ、ヒッキーの四人で占有する形になっていた。


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