※
第二幕
どんなに歌いこんでも、どんなにのどを拡げても、声変わりは止まらなかった。
ゆるやかに、しかし確実に、音域は低くなっていた。
文化祭まで持つのかどうか、ショボンにはわからなかった。
ともすれば肥大化する不安に押し潰されかねない状況だった。
だが、ショボンは平生と変わらぬ毎日を過ごせていた。
(´・ω・`)「ただいま」
返事はない。しかし、聴いている者がいる。
(´・ω・`)「今日は、こんなことがあったよ」
といっても、態々報告する必要などない。
見たことも聴いたことも、すべて共有しているのだから。
気分の問題だった。そして、なによりそれが重要だった。
朝焼けのアラマキくん。携帯でそう名乗った、謎の人物。始めのうちは、
ショボンも警戒していた。助けてくれたことは事実だとしても、理由がわからない。
どういう腹積もりなのか判明するまでは、心解くことなどできないと思っていた。
直接訊いてみても、アラマキくんは答えなかった。
他の話題を引っ張り出して、答えたい質問、
話したい内容についてのみ文章を残しているようだった。
アラマキくんとの会話は、一日一回携帯を通じたやりとりのみとなっていた。
正確には一日一回発信するのはアラマキくんの方だけで、
ショボンのしゃべったことはすべて筒抜けになっている。
そして、質問するのはいつもショボンの方だった。
そのため、会話の取捨選択を主導するのは、
どうしてもアラマキくんの側になってしまう。
目的を探ろうと重ねた質問は、すべて簡単に回避されてしまった。
アラマキくんのことは、ほとんど何もわからずじまいだった。
しかし一緒に生活しているうちに、それらの謎は気にならなくなった。
モララーとの一件以来、寝不足で悩まされることはなくなった。
家の中を歩き回っている様子はあったが、外にまでは出かけていない。
深夜徘徊をしていたのは、本当にショボンのためであったらしい。
考えてみれば、体を共有しているのだから、眠気も当然共有しているはずだった。
睡魔に襲われながらも、ショボンを助けるために、夜通し動き回っていたのだ。
静まり返った夜の町で、眠気を堪えるのは至難の業だったろう。
またアラマキくんは、発声に関するアドバイスもよこしてくれた。
体の内部と声帯を一本のホースに見立てて使う方法などは、
試してみるとたしかに声が張りやすくなった。
小手先の技から根本的でいて重要な技術まで、アラマキくんはよく知っていた。
次から次へと教えてくれるので、実践するのが追いつかないほどだった。
『表現が上達する秘訣を教えてあげるよ!』
アラマキくんは好んで表現という言葉を使った。
変だとは思わない。むしろ的確だと感じた。
アラマキくんのいうことは、すべて表現するという一点に集約されているように思えた。
『それはね――』
無駄な改行スペースはお茶目心。それくらいぼくにだってわかります。
『自分をすきになることさ』
うぬぼれだって構わない。すきだから表現できる。
すきだから、もっと知りたくなる。
携帯にはそう書かれていた。飲み込めた、とは言い難かった。
ただ、昔のことを少し思い出した。携帯に表示される文章は、無機質な電子文字だ。
それなのに、読んでいるとアラマキくんという人となりが伝わってきた。
もう、疑うことはなかった。
家に帰るのがたのしみになった。
その日起こったことを、ちょっとだけ脚色して話すのが習慣化していた。
ひとしきり話し終えてから自主練習を開始するが、身は入らなかった。
九時を回るのが待ち遠しくて仕方なかった。
不気味だった赤い印象も、入れ替わりの合図だと思うと好ましくなった。
そう思って積極的に感じてみると、この赤はけして攻撃的な色では
ないことがわかった。まるで心臓の鼓動のように、生命を感じさせる感触をしていた。
アラマキくんとの共棲生活は、ショボンの生活に今までなかった刺激を与えた。
ただし、困ったこともあった。
(;´・ω・`)「解いたはずの宿題の答が消されてる!」
頭を悩ませ苦労して解いた証明問題が、きれいに消されていた。
ぎりぎり提出直前に解き直すことができたが、あやうく恥をかくところだった。
(;´・ω・`)「徳福屋のふんわりティラミスがなくなってる!」
部活の帰りにデレと徳福屋に寄った、その翌日にはもうなくなっていた。
三個買って、三個残らず食べられてしまった。
アラマキくんはとにかく、いたずらがすきで、食い意地が張っていた。
細かな被害を上げればきりがなかった。被害を受けないよう隠そうとしても、
ショボンの行動は筒抜けになっている。抑止することは不可能だった。
ショボンも当然、不満を漏らした。抗議した。咎めだてた。しかし――。
『おもしろそうだったんだもん♪』
あるいは、
『おいしそうだったんだもん♪』
と開き直るばかりだった。謝るということを知らないに違いなかった。
このように、アラマキくんとの生活は大変なことも多かった。
けれど、けしていなくなってほしいとは思わなかった。
録画した『相克のハルカタ』を観終えてから、携帯に書かれた考察を読んだ。
相変わらず、アラマキくんは『相克のハルカタ』の考察を続けていた。
漫然と見ているだけでは気づかなかった描写、多角的な視点からの観察は、
理解を深めると共に、それ単体でもおもしろい読み物になっていた。
特にジョルジュ周辺に関する考察には、目を見張るものがあった。
どのように考えて演じているか、役者側の観点に至るまで列挙されていた。
その入れ込みように、アラマキくんもジョルジュのファンなのかなとショボンは思った。
『まさか。大嫌いだよ』
ショボンが尋ねると、アラマキくんは簡素な言葉で否定した。
少しだけ残念だった。
('ー`*川「よし、それじゃ休憩しようか」
ペニサスが手を叩いた。ショボンは汗を拭い、息を吐いた。
ここ最近の部活は、非常に熱の入った厳しいものになっていた。
文化祭がいよいよ間近に迫ってきたのも、理由のひとつといえた。
しかしなにより、モララーの妨害を警戒する必要がなくなったことが大きかった。
モララーはまったく顔を出さなかった。臨時部員も、宣言どおり真面目に参加していた。
元々素養の高かった者を集めていたのか、上達は早かった。
ヒッキーなど、聴いていて思わず唸ってしまうこともあった。
とはいえ、正規部員の全員が、すんなりと受け入れたわけではなかった。
特にデレは、臨時部員の突然の転化を信用できないようだった。
渡辺やヒートも、口にこそしなかったが不安がっている様子は見て取れた。
臨時部員の方から歩み寄ろうとしても、硬化した態度を崩すのは容易なことではない。
亀裂が入るのも仕方ないと思った。ただその中で、ペニサスだけが考えを異にしていた。
('、`*川「とりあえず、合わせて歌ってみよう」
ペニサスは正規部員、臨時部員を混合して並べると、有無をいわさず歌わせた。
いったん最後まで歌いきる。間髪いれずにもう一度と繰り返した。
また歌い終わる。またもう一度。さらに歌いきる。まだ繰り返す。
腹に力を込め、全身を使って全力で歌うのは、想像以上に体力を消耗する。
うまく声がでなくなる。失敗も頻発する。立っているのもつらくなる。
けれどペニサスは、「もう一度」という号令を止めなかった。
もう何十回連続で歌ったろうか。ようやく、休んでいいという令がだされた。
だれもがその場に座り込んだ。ペニサスだけが立っていた。
ペニサスは、そのままの格好でいいから聴いてくれないかといってきた。
('、`*川「歌を歌う理由なんてさ、人それぞれでいいんだよ。人間だしね、
みんな同じ考えってわけにはいかない。だから、気に食わないこともあると思う。
仲良しこよしでいろなんていわないさ。でもな、私たちがやってるのは合唱なんだ。
個人競技じゃない。いがみ合ってちゃ絶対うまくいきっこない、団体芸術なんだよ。
たしかにうちはさ、毎度助っ人を募集するような、ちっちゃな部だよ。だからこそ、
歌いたいってやつを大切にしたい。歌うのがたのしいなら、その感情を共有できるなら、
それだけで充分だと思うんだわ。それにさ――」
ペニサスは言葉をきると、格好いい笑みを浮かべた。
('ー`*川「くたくたになるまで一緒に歌って、どうだったよ。
不快だった、気持ち悪かった、何も感じなかった? デレ、どうだった?」
突然の指名にデレは驚いた顔をしていたが、やがて小さな声で答えを返した。
ζ(゚、゚*ζ「別に……いやなんてことは、なかったです」
('ー`*川「だろ?」
ペニサスは満足そうにそういうと、いつものように手を叩いた。
('ー`*川「よし、それじゃこれで面倒くさいの終わり! 休憩も終わり! まだまだ歌うぞ!」
この一件以来、正規部員と臨時部員の垣根は急速に取り払われていった。
いまはもう、デレでさえも、敵意をあらわにすることはなくなった――。
休憩時間には水分補給をしたり体をほぐしたりしながら、大抵は何か話し合っている。
小難しい話はしない。頭の軽くなる、連帯感を持てる話題が好ましい。
ノハ*゚听)「そんな考え方もあるんですかっ!」
('、`*川「なーる、おもしろい解釈だね」
『相克のハルカタ』を見ていない中学生は、おそらくいない。
まず間違いなく、万人に通じる話題だといえた。ショボンは
アラマキくんの考察で読んだことを、間違えないようにしながら語ってみせた。
ノハ*゚听)「先輩すごいですっ! なんでそんなところに気づけちゃうんですかっ!」
もっとも食いついてきたのはヒートだった。すごいすごいと、
笑顔になってほめそやしてくる。悪い気はしなかったが、
これは借り物の知識だ。あまり得意になるのも恥ずかしかった。
(-_-)「ぼ、ぼくだってそのくらい……」
ヒッキーが口を差し挟んできた。ショボンが何かいうと、それに対抗しようとしてくる。
この流れも、最近の定番となっていた。そしてここから。
ノハ*゚听)「気づいてた?」
(;-_-)「いや、そういうわけじゃないけど……」
ノハ*^凵O)「だよねーっ!」
と、つながる。ふてくされるヒッキーを他所に、周囲では笑いが起こった。
声を立てて笑う者が多い中、中心から外れた場所では、渡辺が目尻を下げていた。
渡辺はたのしいたのしいと、うれしそうにしていた。
渡辺だけではない、みんなが満足そうにしていた。
ただ、デレの様子だけがおかしかった。
(´・ω・`)「デレ、どうかした?」
ζ(゚、゚*ζ「……え? う、ううん。なんでもないよ」
デレは会話にも加わらず、上の空といった態でいた。
ここのところ、デレは頻繁にこのような状態へ陥っていた。
どうもそれは部活中だけでなく、他の時間にまで及んでいるようだった。
良くも悪くも天真爛漫なデレが、こうも調子を落とすと、
こちらまで変になってくる。心配だった。しかし渡辺は、
そんなデレを見ても「本当にたのしいね〜」といって相好を崩していた。
「ショボンくん、今日は俺たちに付き合ってもらえないかな」
部活が終わって帰ろうとしたところを、
三人の臨時部員に呼び止められた。あまり話したことのない三人だった。
ショボンは疑問に思ったが、断るのも悪いと、彼らに付いていった。
道を歩いている途中で、異様な気配に気がついた。
彼らは自分から誘ってきたにもかかわらず、一言も話さず、ただ無言で歩き続けていた。
ショボンを含め四人、沈黙のまま行進した。
どこへ行くのだろう。道はとうに、ショボンの帰り道から外れていた。
見覚えのある道だった。そのときから、予感はしていた。
このまま歩いていくと、記憶の中の、とある場所へとたどり着く。
息が詰まりそうだった。彼らの行進は、確実に記憶の経路をたどっていた。
もはや疑いようもなかった。足が止まった。目の前にはその場所――今にも、
そして数年前からずっと崩壊しそうなまま、しぶとく立ち続けているあの廃屋があった。
玄関ドアが壊れて斜めに傾いているのも、二階の壁が崩れ落ちて
部屋の中が丸見えになっているのも、すべて記憶のままだった。
「それじゃ、俺たちはこれで」
ショボンを連れてきた臨時部員は、一度二階を見上げてから、
何事もなかったかのように去っていった。
ここから先は、ショボンひとりで行けということらしかった。
中も昔のままだった。一歩進むたびに、床が軋んで悲鳴を上げる。
昔と違うのは、ショボンの体重が増したことで、床板が限界ぎりぎりといった
しなり方をすることだった。二階への階段も、登れるのか不安になるくたびれようだった。
( ・∀・)「遅かったな、もう少しで寝入ってまうところだった」
二階にはモララーが寝転がっていた。視線は崩落した天井を越え、
遥か遠くの空を眺めている。ショボンはモララーの傍へ近寄るため、足を踏み出した。
( ・∀・)「気をつけろよ、がきのころとは違うんだからな」
腐った床は下手をすると簡単に底が抜けそうだった。
一点に体重をかけないよう、不自然な進み方になる。
尺取虫のような動きのまま、モララーの隣までやってこれた。
( ・∀・)「あいつはいないよな」
(´・ω・`)「あいつ?」
( ・∀・)「お嬢様だよ。あいつがいると話がややこしくなる。
……安心しろ、もう何も企んじゃいない」
腰を下ろした。お尻の下が音を立ててへこんでいくのがわかる。
懐かしい感触だった。昔はもっと、怖くて仕方がなかった気がする。
いや、怖がっていても、よかっただけかもしれない。
(´・ω・`)「まだ、来てたんだ」
( ・∀・)「頭の中を整理したくなったときなんかに、たまにな」
微風が絶えず木屑を吹き転がしていた。
前方から後方へ、壁が崩れているためなんなく通り抜けていく。
二階からの景色は、日常でもよく見ている。
ショボンの部屋も二階にある。学校でも窓を開ければすぐそこにある。
だが、ここの光景は他のどれとも異なっていた。
壁の崩れによって見える角度が大きく拡がっているため、
というわけではなさそうだった。現実の町並みが、この場所を基点として
非現実に塗り替えられているような感じがした。なぜだか、涙が出そうだった。
( ・∀・)「おまえが人を脅せる人間だとは思わなかった」
モララーは仰向けのままそういった。脅す。物騒な言葉だ。
身に覚えはなかった。けれど、おそらくはモララーのいうとおりなのだろう。
ショボンの体が深夜、脅し、あるいは話を持ちかけに歩き回ったのだった。
( ・∀・)「責めちゃいない、俺もやってることだ。あいつらにとっては、
これでよかったのだろうしな。……あいつらは、たのしそうにやってるか?」
答えに窮した。本当のことをいっては、モララーの自尊心を
傷つけることになりはしないだろうか。といって、嘘をついてよろこぶとも思えない。
迷った末に、本当のことをいった。
モララーは対して気にも留めていなかったようで、
眉根ひとつ動かさない涼しげな表情のままだった。
だから――。
( ・∀・)「そうか。それじゃなぜ、おまえはたのしくもないのに歌う」
突然の言葉に、ショボンの方が狼狽した。床の軋みが、そのまま家全体をゆらした。
いつから気づかれていたのだろうか。モララーはさも当然といった様子で、話を続けた。
( ・∀・)「俺にはどうしてもわからん。歌いたくもないおまえが、
なぜここまで躍起になっているのか。慣れもしない裏工作にまで手を出して、だ。
おまえの中ではいったい、どうつじつまがあってるんだ?」
先の動揺が静まらないままに、新たな質問が飛んできた。なぜ歌うのか。
それはショボンにとって、根本の問題だった。好悪は関係ない。
ショボンは歌い続けなければいけない。保ち続けなければならない義務だった。
(;´・ω・`)「ぼくは、歌わないとぼくじゃないから」
( ・∀・)「つーさんか」
間髪いれずにつながれた名前は、ショボンの呼吸を止まらせた。
のどの奥が痙攣する。
( ・∀・)「俺も、つーさんだ」
声は聴こえる。だが、頭が働かない。考えることができない。
( ・∀・)「親父さんは来るのか?」
ショボンは答えない。
( ・∀・)「相変わらずか……」
モララーは目をつむった。もう、何も言う気はないようだった。
ショボンは壁の外を眺め続けた。陽が落ちる。
『お父さんはずっとああなの?』
翌日のことだった。アラマキくんから、初めて質問された。
詳しく説明する気は起きなかった。ショボンは簡単に、そうだよとだけ答えた。
『仕事なんかにかまけてる暇があるなら、もっと子どものほうを向くべきだ。
父親として、なってない』
意外にも強い語調で、アラマキくんは父を非難した。
ここまで感情をむき出しにした文章は、これまでになかった。
少なからず、反発した。何も知らないくせに、勝手なことをいっていると思った。
(´ ω `)「仕方ないよ。父さんにだっていろいろあるんだ」
声がふるえていた。のどは、いまもまだ痙攣したままだった。
_、_
( ,_ノ` )「……うん、まあ、いいか。そこそこ形にはなったな」
文化祭前日になってようやく、渋澤から否定以外の言葉が出た。
そこかしこから安堵の息が漏れている。二日前、突如としてやってきた
渋澤の猛稽古によって、部員全員心身ともに疲弊しきっていた。
しかし無駄な疲れではないことは、顔を見れば明らかだった。
努力した、耐え抜いた、これだけやったという自信が、表情に表れている。
明日の本番では、みんな、心地の良い緊張感を持って挑めるのだろうなと、ショボンは思った。
从'ー'从「帰りにマック寄ってかない〜?」
という渡辺の提案により、いつものメンバーでマックへ行くことになった。
疲れてはいても、こういう寄り道に使う体力は残っているのだから不思議なものだ。
学校外でこの四人と一緒に行動するのは、他人の目が気になる。
だが、断るという選択肢は思い浮かばなかった。
从'ー'从「ヒーちゃんは、ヒッキーくんのことどう思ってるの〜?」
渡辺がずばり直球で質問した。ペニサスも興味のない振りをして、
しっかりと聞き耳を立てている。ヒッキーがヒートに好意を抱いていることは、
もはや公然の秘密になっていた。ヒッキーの行動はあからさまで、
誰もがすぐに感づいた。ただ――。
ノハ*゚听)「歌が上手ですっ! あたしも負けてられませんっ!」
('、`*川「そ、それだけか?」
ノハ*゚听)「えと、なんか、まずいでしょうかっ?」
当人だけは、このとおりだった。ペニサスは名状しがたい表情で口をつぐんだ。
おそらくヒッキーに同情しているのだろう。ショボンも同情した。
対照的に渡辺は、鼻歌でも歌いかねない笑顔を浮かべて、たのしそうにしていた。
从'ー'从「かわいそうだね〜。ねえデレ〜」
ζ(゚、゚*ζ「え? う、うん。そうだね」
話を聞いていなかったのか、デレの返事はあいまいだった。
それからしばらく、食事なのかおしゃべりなのか判然としない時間をすごした。
終始興奮しているヒートを、渡辺がからかっている。その様子を、ペニサスは
ポテトを食べながら眺めていた。変化のない和んだ空気の中、デレが立ち上がった。
ζ(゚、゚*ζ「ごめん、ちょっと……」
デレはトイレの方へと歩いていった。その後姿は、肩が落ちて力ない。
トイレのドアを閉める動作すら、漫然として見えた。
ハ*゚听)「デレ先輩、最近元気ないですよねっ。ショボン先輩、何かあったんですかっ?」
(´・ω・`)「なんで名指し? いや、知らないけど」
ショボンが答えると、ヒートはなぜか不満そうな顔をした。
渡辺はなおも笑っている。わけがわからず、ショボンはフィレオフィッシュを口にした。
('、`*川「いろいろあるんだろうが、デレなら乗り越えるだろう。なんだかんだいって、
やるときはやるやつだからな。あいつなら心配いらんさ」
ペニサスはポテトの箱に指をつっこみ、もうなくなっていることがわかると
上から圧しつぶした。そばにあった紙ナプキンが、ゆるやかに浮かんですべった。
('、`*川「私にとって明日が、文等中でやる最後の合唱だ。今までやってきた中で、
最高のものにしたい。紆余曲折あったが、今年はそれができる面子だと思う。
ここにいるおまえらだけじゃない。部員全員で力を合わせれば、必ず達成できる」
ペニサスは平べったくなったポテトの箱を、指で挟んだ。
指を上下に交差させて、右に左に箱を揺らしている。
テーブルにあごを乗せたヒートが、箱の動きに合わせて頭を傾けていた。
ノハ;゚听)「ううっ、なんだか緊張してきましたっ」
从'ー'从「ミスした人は逆さ磔の刑だね〜」
ヒートが頭を抱えた。渡辺とペニサスが声を立てて笑った。
ポテト箱の動きが止まった。ひとしきり笑った後、
ペニサスは二本の指でショボンを指差してきた。
('ー`*川「ショボン、明日は期待してるぞ」
(´・ω・`)「……はい」
のどの底がひくついた。
『平常心で発表に望めるおまじないを教えてあげるよ!
やり方は簡単さ。それはね――』
ぬいぐるみのアラマキくんを机に置いた。時刻は六時半。
窓からは、赤から白へと変化する途上の光が差し込んでいた。
柔軟運動をして、シャワーを浴びて、朝御飯を食べる。
着替えを済ませ、鏡を見て、格好を整える。
必要なものをかばんに入れ、最後に携帯を確認し、ショボンは家を出た。
今日は文化祭。ついに、発表本番の日が訪れた。
クラスメイトが体育館へと向う中、集団から抜けて第二音楽室へと行く。
予行も兼ねて、最後に一度合わせる。その後は、発表まで待機することになっていた。
発表は吹奏楽部、演劇部の後に行われる。
希望すれば見にもいけたが、去年はひとりも見にいかなかった。
さすがに昨日とは様子が違う。みな引き締まった顔をして、
背筋まで垂直に伸びている。会話をしても、浮かれた雰囲気はない。
ただ、極端な硬直状態に陥っているわけではなさそうだった。
蓄えた実力を、早く発揮したくて仕方がないといった感じだった。
_、_
( ,_ノ` )「おまえら、そろそろ行くぞ」
吹奏楽部の指揮を終えた渋澤が、案内にやってきた。息を呑むのがわかる。
渋澤を先頭に、体育館へ向った。演劇部の劇が終わるまで、傍の広場で待つ。
片付けが済んだらすぐに、入場することになっていた。
時間はもう、いくらもなかった。外は肌寒い。
なのに、嫌な汗が噴き出して止まらなかった。唾液が、うまくのどを通らない。
緊張しつつも堂々としている仲間の姿に、より一層煽られる思いだった。
ショボンは、デレの手をつかんだ。
(;´・ω・`)「ごめんデレ、ちょっと一緒に来て!」
デレが何かを言い出す前に、ショボンは走り出した。
何度かつんのめりそうになったが、校舎に入ることができた。
廊下にはだれもいなかった。ショボンと、デレだけだった。
ζ(゚、゚;ζ「どうしたの? 早く戻らないと」
デレは不安そうにしている。突然連れて来られたことよりも、
発表に間に合わなくなるのではと不安がっているようだった。
ショボンもそれは同じだった。早く済まさなければならない。息を深く吸い込んだ。
『人前で、すきな食べ物を思いっきりの全力で叫ぶのさ!』
携帯に書かれていた文章が頭に浮かぶ。誰にでも可能な、簡単なおまじないだ。
とうぜん、ショボンにだってできるはずだ。吸い込んだ息が、体の内部に溜め込まれた。
『先に恥ずかしい思いをすれば、緊張なんてなんのその、ベストの状態で挑めるものだよ。
ただし、本当に、腹の底から吐き出すんだよ。そうしないと意味ないからね』
後は吐き出すだけだった。デレが怪訝そうにしている。心臓が狂っている。
アラマキくんは、この光景も見ているのだろう。簡単なことだ。息が苦しくなってきた。
すきな食べ物の名前、すきな食べ物。吐き出すだけ、それだけ――。
ショボンは急いで体育館前へ戻った。後ろからデレが付いて来ている。胸が痛い。
結局ショボンは、溜め込んだ空気を元の場所へ還元するだけに留まった。
人前ですきな食べ物を叫んだからといって、何の意味があるのか。
必要ないことだと、ショボンは自分を納得させようとした。
長い廊下の出口で、人が立っているのに気がついた。
ショボンは立ち止まった。そこにいたのは、モララーだった。
ζ(゚、゚;ζ「な、なによ」
デレはショボンの背中に隠れて、用心深く顔だけ覗かせていた。
モララーは意に介した様子もなく、真っ直ぐにショボンと視線を合わせてきた。
( ・∀・)「つーさんの代わりに、聴き届けてやる」
ショボンは視線を逸らした。体育館から拍手の音が漏れ出している。
もう時間がない。ショボンは走り出した。
モララーが視界に入らないよう、下を向いたまま。
整列して壇上へ上っていく。二階席から放たれる照明が、目に眩しい。
観客席がかすれて、よく見えなかった。モララーはどこにいるのか。
ここからではわからなかった。
いま気にするべきなのは、観客席ではない。
指揮台に登った渋澤に意識を向ける。ざわめいていた場内が、きれいに静まり返った。
圧縮した空気が体育館中に満たされている。
その空気を、振り下ろされた指揮棒が切り裂いた。
息の揃った、順調な滑り出しだった。
狭い室内とは異なり、広い場所では音が拡散する。
そのため周囲とのずれがわかりづらくなってしまう。
スタートを失敗してしまうと、途中で修正するのは至難の業といえた。
ソプラノ、テノール、バスの動きに気を配りながらも、
一番大切なのは指揮に忠実に従うことだった。
すべての音を客観的に把握できるのは、指揮者だけである。
三日間の猛稽古によって、指揮に合わせる体ができていた。
すべてがうまくいっている。問題ない。何も問題ないはずだ。
だがしかし、ショボンはブレスの度に、のどが絞まっていく感触に襲われた。
うまく息が吸えない。スタッカート、フォルテ、クレッシェンド。強い記号が続く。
なのに、強い音が出せない。酸素が足りない。
おまじないをしなかったからなのか。関係ない。
去年はそんなことしなくても歌えた。昔は、もっと上手に歌えた。
酸素が足りない。指揮に集中しないと。照明が熱い。観客の姿が見える。
そこでショボンは、見てしまった。
見えてしまった。二階席の照明横。
手すり前の最前列に立っているモララーが、見えてしまった。
あのときと同じ目をしている。違う、そんなところまで見えるわけがない。
それはただの記憶だ。
指揮棒がショボンを指した。ソロパートへ突入する。
のどが閉塞している。歌わないと。人々の視線が突き刺さっている。
他に音はない。歌う者はいない。声が。渋澤が怒った顔をしている。
怖い。モララーが見ている。あの目が。どよめきが聴こえる。歌わないと。でも――。
声が。
姉さん。
便器の中で吐瀉物が跳ねた。透明な水が濁っていく。
嘔吐感は一向に治まる気配がなかった。もう一度吐き出して、流した。
部屋の中で、携帯のランプが明滅していた。新着メールが来ている。
ショボンは内容を確認すると、すぐさまトイレへと駆け込んだ。
文化祭から三日が経過していた。
ショボンはあれ以来、家にこもっていた。
部員からは絶えずメールが来ていた。非難的な内容はひとつもない。
どれもこれもやさしい、仲間を気遣うメールだった。
ショボンはそれらのメールを読んでいると、堪えられず、吐いた。
何度も吐いた。腹の中が空っぽになると、胃液だけを吐いた。
期待を裏切った。迷惑をかけてしまった。部長の三年間を、ぶち壊しにしてしまった。
仲間に顔向けできない。たしかに恐ろしいことだった。
だがそれよりも、歌えなかったという事実そのものが、ショボンの神経を蝕んだ。
彼女たちのメールは、やさしい。しかし、ショボンが歌わなかった理由を、
ただの失敗と捉えていた。気にしなくていい、大会で挽回すればいい、
いつでも待っていると、ショボンが歌うことを信じて疑わない。
違う、そうではない。歌えなくなってしまったのだ。
昔のようには歌えないと、体がそう決まってしまった。
“ショボン”は死んだのだ。歌えない自分に、何の価値があろう。
だからこそ、彼女たちのメールは突き刺さった。
やさしくされればされるほど、期待に応えられない自分と対峙することになる。
ショボンにできることはただ、すべての文に目を通し、便器に向かうことだけだった。
もう何時間こうしているのかわからなかった。トイレと部屋を往復して、
新着メールが届けばそれを、なければ過去のメールを読み返した。
いま、ショボンは部屋へ戻るところだった。
携帯が光っていた。足が止まった。
三日目ともなるとさすがに、新しく来るメールの件数も減っていた。
ショボンは携帯に手を伸ばした。ふるえてうまくつかめない。
内容を確認する前から、胃液が逆流しそうになった。
だがディスプレイには、想像とはまるで異なる文章が表示された。
『おばけ屋敷にて待つ』
差出人は、モララー。お化け屋敷というのは、あそこのことだろう。
ショボンは携帯を閉じた。モララーには悪いが、外へ出る気にはなれなかった。
だれとも顔を合わせたくはなかった。
ショボンは背を壁につけ、その場に座り込んだ。
そのまま動かずに、雲の動きを追った。
雲の陰が茜色から、黒色へと濃淡を強め始めたころだった。
玄関ドアが開き、閉まる振動が背中に伝わった。
シャキンが帰ってきていた。階段を下りる。板張りの階段が音を立てた。
シャキンは近づいてくるショボンに気づき、顔を上げた。その顔が、困惑に歪んだ。
(;`・ω・´)「おまえ、その顔どうしたんだ」
(´・ω・`)「父さんこそ、また早いね」
会話が途切れた。シャキンはネクタイをゆるめ、上着を脱いだ。
かばんを置き、箪笥から衣類を取り出している。ただ着替えるだけの量ではなかった。
ショボンは呆然と、シャキンの動きを見ていた。
(`・ω・´)「……明日から、一ヶ月ほど出張なんだ」
シャキンはトランクケースに荷物を詰めながら、いった。
視点は固定されて、けしてショボンの方を向くことはなかった。
ショボンは黒いトランケースに目を向けた。
一ヶ月の出張だからといって、何かが変わるわけでもない。
どうせ普段から、ろくに顔も合わせていなかった。仕方ない、仕方ないんだ。
ショボンは自分に言い聞かせようとした。仕方ないと思えば、
大抵のことは諦めることができた。だが、今回に限って、それはまったく通用しなかった。
得体の知れない衝動が、抑え難くショボンを突き動かした。
(´ ω `)「急だね」
思いがけず、咎めるような口調になった。
(`・ω・´)「いや……ずいぶん前から、決まっていた」
そういうことか。あのとき言いよどんでいた理由が、いまになってわかった。
胸の底の感情が、ますます膨らんでいく。
(´ ω `)「どうして言ってくれなかったの?」
(`・ω・´)「機会がなかっただけだ。隠していたわけではない」
嘘をついている。あの日、モララーにブーンをけしかけられた日、シャキンには
機会があった。あのとき事故の経過を尋ねたのは、心配したからではなかったのだ。
ショボンを置いて出張しても平気かどうか、確かめただけだったのだ。
ショボンはシャキンを睨んだ。シャキンはそのことには気づかない。
目の前にある荷物しか視界に入っていない。父とまともに向き合ったのは、
いつが最後になるのだろうか。父がぼくを見たのは、あの日が最後だ。
(´ ω `)「父さん……どうして、どうしてぼくを避けるの?」
答えは知っている。けれど、いままでは怖くて口にすることができなかった。
平衡感覚が働いていない。どこまで話していいのか、どこで止めるべきなのか、
判断がつかなくなっている。衝動に取り憑かれている。衝動が――。
(;`・ω・´)「避けてなど――」
(#´・ω・`)「避けてるよ!」
爆発した。もう止まらない。父への不満が次々と思い浮かんでくる。
それは最近の記憶から始まり、枝分かれするように連続した過去へと遡って行った。
(#´・ω・`)「ぼくがまだ合唱続けてたって、父さん、知らないでしょ」
シャキンの顔はショボンへ向いている。
しかしいまに至っても、直視しようとはしない。
不満の記憶は四方へ拡がり、関連した思い出をも侵食した。
心地の良いはずだった思い出が、異なった印象に塗りつぶされていく。
(#´・ω・`)「そうだよね、知ってるわけないよ。父さんは、ぼくのことを
嫌ってるんだから、恨んでるんだから。ぼくなんか、視界に入れたくないよね」
何も思い出したくない。
なのに勝手に、記憶は浮かび上がってくる。幸せを感じていた時期もあったのだ。
それがいまにつながる現実だとしたら、あんまりではないか。
(;`・ω・´)「ばかなことをいうのはやめろ」
(#´;ω;`)「それじゃあなんでさ! なんでぼくを見てくれないんだよ!
なんで、なんで許してくれないんだよ……。許してよ、助けてよ!」
いってはならない一言があった。普段ならば絶対に口にしない。
だけどもう、ブレーキはとっくに焼き切れていた。
(#´;ω;`)「父さんだって――父さんだって、母さんを死なせたくせに!」
ほほに衝撃が走った。直後に、熱くなった。
シャキンの手が、空中で静止していた。はたかれた。
ショボンはもう、なにを、どうすればよいのか、まるでわからなかった。
錯綜した意識のまま、家を飛び出した。
あてどもなく彷徨っているはずだった。
何かを考えられる状態にはなかった。あるいは虚脱していたからこそ、
体が勝手に動いたのかもしれない。かつての幸福感を求めたのかもしれない。
ショボンはいつの間にか、モララーの待つ廃屋に到着していた。
躊躇はなかった。ショボンはごく当り前のように、中へと入っていった。
( ・∀・)「幽霊が住み着いてるって噂、仕入れてきたのは俺だったか、つーさんだったか」
モララーは以前と同じく、寝転がった格好で二階にいた。
( ・∀・)「幽霊なんていやしなかったな」
小学生のときだった。この廃屋に、幽霊がいるという噂が立ったことがあった。
少数の目撃例は、尾ひれのついた怪談話へと様変わりして流布した。
ショボンは怖い話が苦手だったので、話題になっても近づかないようにした。
しかし、モララーと――つーは違った。
ふたりは真相を確かめるべきだと、気焔を吐いていた。
嫌がるショボンを引っ張って、朝な夕な廃屋へと詰め掛けた。
父の眼を盗んで、深夜に部屋を空けることもあった。
怪奇現象には遭遇しなかった。
人が歩き回る音も、ひとりでに開閉するドアや家具も、どこからともなく
鳴り出してくるオルゴールも、胸部に刺し傷のある太った男も、すべての噂は嘘だった。
それでも三人はここへ来た。食べ物を持ち寄って、自分たちの秘密基地とした。
だれかが入ろうとしたら、脅かして追い払った。廃屋に幽霊はいなかったが、
日常とは異なる非現実性を感じる場所ではあった。それは嫌な感覚ではなかった。
もしかしたら見えないだけで、幽霊はいたのかもしれない。
その幽霊はきっと、ただそこにいただけで、悪いものではなかったのだろう。
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