2-2


( ・∀・)「食べるか? 安心しろ、ハムとツナサンドだけだ」

モララーがビニールに包まれたサンドイッチを持ち上げた。
ショボンが受け取らないでいると、モララーはビニールを開けて、自分で食べ始めた。

モララーの持ってきた卵サンドで、一度、大変な事態になったことがある。
知らなかったのだ、だれが悪いわけではない。それに、大事にまでは至らなかった。
ただそれ以降、モララーは持ってくる食料を厳選するようになった。

モララーがサンドイッチを食べる以外に、音といえる音はなかった。
街中が静かなのか、この廃屋だけが特別なのかわからなかった。

あのときの幽霊は、まだここにいるのだろうか。
もし幽霊というものが本当に存在するのなら、
やはり思い出深い場所へと留まるのだろうか。

(´・ω・`)「もしかして、ここに来てるのって――」

( ・∀・)「まさかだろ。俺はオカルト信者じゃないんだ」

言い切るより前に、モララーは意図するところを見抜いていた。
それはきっと、心のどこかで考えていたことだからに違いなかった。



突然、階下から木を引っ掻く音が響いた。
音は間断なく響き渡り、廃屋を揺らし、天井からは
木屑がこぼれ落ちてきた。ショボンは腰を抜かしそうになったが、
モララーは気に止めた様子もなくサンドイッチを口に運んでいた。

一際大きく振動した。足音が一階の床を通り、そのまま階段を駆け上がってきた。
何かが顔を出した。暗くてよく見えない。その何かが、勢いよくショボンに突進してきた。
腹にぶつかった途端、強烈な臭いが漂った。何かの正体は、ブーンだった。

ブーンはショボンの周囲を回りながら、時折頭を押し付け甘えてきた。

( ・∀・)「つーさんはだれからも、動物からも好かれる人だったな」

モララーは腰を起すと、食べかけのサンドイッチを放り投げた。
ショボンに纏わりついていたブーンが、鋭敏な反射神経でもって空中を舞った。
崩れかけた床の上に器用に着地するときにはもう、サンドイッチは影も形もなくなっていた。

( ・∀・)「あの人は大人だった。つーさんと同じ年になっても、俺はまだまだ
      がきのままだ。損得ばかり目に付いて、ダチの作り方もわかっちゃいない」

モララーが立ち上がった。月明かりを受け、影が伸びている。その影が、動いた。



( ・∀・)「おまえは歌うべきだ」

モララーの顔は陰になっていて見えない。
しかし、ショボンの視界には、モララーの表情がたしかな形となって現れていた。

( ・∀・)「ずっと考えていた。おまえが歌う姿を見て、なぜこんなにイラつくのか。
      俺はつーさんだと思った。つーさんが歌えなくなったというのに、
      おまえが罰も受けずに悠々と歌っているから、許せないのだと思った」

メールを受け取ったときから、予想はしていた。おそらくいま
言われたようなことを突きつけられるのだろうと。どうしようもないほどに、
責め立てられるのだろうと。それならそれでいいと思った。しかし――。

( ・∀・)「だが、違った。文化祭の日、おまえが歌えなかったのを見ても、
      俺の気は晴れなかった。恨んでいたのなら、よろこんでもいいはずだ。
      けどそのとき俺が感じたのは、もっとごちゃごちゃした、よくわからないもんだったよ」

モララーの述懐は、ショボンへの罵倒とはならなかった。

( ・∀・)「三日間考え続けて、ようやく気づけた。俺はおまえの歌う姿勢が
      気に食わなかっただけだ。単純な話だ。つーさんがどうとか、
      過去がどうだの関係ねえ。俺が気に食わない、それだけが重要だ」



モララーはひとりで気づき、ひとりで先に進んでいた。
苦しかった。非難して、罵声を浴びせてくれた方が、どんなに楽かしれなかった。

( ・∀・)「もう一度いうぞ。おまえは歌うべきだ。
      だが、後ろ向きのいじけた考え方で歌うことは許さねえ」

理解しないでほしかった。その上で歌えと、そんな酷なことをいわないでほしかった。

(´ ω `)「勝手だよ――」

勝手という言葉が箍を外した。
静まりかけた記憶に、次々と付着していった。

(#´・ω・`)「勝手だよ、みんな勝手だ! モララーも、父さんも、姉さんも!」

期待も、失望も、羨望も、嫉妬も、軽蔑も、嫌悪も、友情も、愛情も、
与え、与えられるなにもかもが。

(#´;ω;`)「姉さんが勝手にぼくを庇ったから、父さんが僕を嫌うんだ、
       こんな思いをしなくちゃいけなくなるんだ!
       姉さんが生きていれば、姉さんが生きれば――
       ぼくが、ぼくが死ねばよかったんだ! ぼくが死ねば、全部丸く収まったんだ!」

床が爆発した。モララーの足が、床を踏み抜いていた。
怖気づいたショボンの目の前まで、モララーは詰め寄ってきた。



( ・∀・)「自分勝手で何が悪い」

屹然と言い放つモララーは、
視界に映っていた記憶の中のモララーと、異なる瞳をしていた。

( ・∀・)「そうだ、俺は勝手だ。俺の行動はすべてが自分のためだ。
      たのしいから関わる、つまらんから避ける、理想があるから努力する、
      気に食わないから、矯正する。全部自覚してのことだ。だがな――」

襟首を引っ張られた。顔が、目前にまで迫っている。

( ・∀・)「おまえも充分勝手なんだよ。歌うも歌わねえも、てめえの問題だ。
      決定すんのは自分の意思だ。被る結果も、責任も、全部ひっくるめて自分のもんだ。
      てめえの勝手を、つーさんにおっ被せてんなよ」

モララーは手を離すと、そのまま後方へと下がった。
崩れた壁の直前まで下がり、そこで止まった。
外の景色を背後に、モララーの姿が浮かび上がっていた。

( ・∀・)「それでも死にてえってんなら止めやしねえ。
      自分勝手に、ひとりで死ね」

モララーが飛んだ。
その次の瞬間にはもう、視界に映るのは現実の町並みだけとなった。

ブーンが足元でまとわりついてきた。足を振り上げた。空を切った。
ブーンは距離を取った。困惑したような顔をしていた――。



家の中は真っ暗になっていた。シャキンの気配はどこにもなかった。
ショボンは自室に戻り、制服からベルトを抜き取った。

革製の、丈夫なベルトだった。
ショボンはそれを一度真っ直ぐ伸ばすと、首に巻きつけた。
留め金の冷たい感触が、ちょうどのど仏の辺りを圧迫した。

ベルトの余った先を、両手で握りしめた。
ベルトの質感というものを、初めて理解できた。そしてそのまま、引っ張った。

眼球が飛び出しそうになった。目の前が白んでよく見えない。
目と鼻の中間点が、つまったように閉塞した。革の絞まる音が、耳でなく骨で聴こえた。

案外苦しくはなかった。それよりも、留め金の物理的な圧力が気になった。
脳が頭部よりも膨張したように、感覚が自分とそれ以外の境界を曖昧にした。

白く見えた景色が、だんだんと陰を濃くしていった。
視界と共に意識も、暗く、黒く沈んだ。

もうなにもなかった。


 






咳と共に目覚めたとき、ショボンは座った格好に携帯を握りしめていた。
携帯は開いていた。まだバックライトが消えていない。
ついさっきまで使われていたのだ。ショボンは表示された画面を見た。

『バカ! アホ! マヌケ! 死のうとなんかするな、バカ!』

無造作に投げ捨てられたベルトが、床に転がっていた。首に手をあてた。
のど仏が、留め金型にへこんでいる。夢ではない。現実に、自分がやったことの痕だった。
内部も圧迫されたままなのか、妙に息苦しかった。

ショボンは携帯を閉じようとして、あることに気がついた。
もう一度確認しようと携帯を凝視した途端、バックライトが消え去った。
ショボンは顔を上げて、壁にかかった時計を見た。時間はまだ、九時を回っていなかった。

ショボンは口を開いた。息が漏れた。
何度か息を吸い、吐く行為を繰り返してから、携帯に文章を打った。

『自由に出てこれるの?』

携帯を握ったまま、待った。
一分も経たないうちに、視界が赤く染まった。



『やってみたらできたんだよ。そんなことより、もうバカな真似するんじゃないぞ!』

意識が返ってきた瞬間に、文章が目に飛び込んできた。
ショボンは寝転がって、いまもらった文章と、先程のメッセージを読み返した。
幾度読み返しても、飽きなかった。視界がまた赤く染まった。
今度は時間が一気に飛んで、朝の六時になっていた。

『話を聴いてくれないかな』

なにもかもを打ち明けたかった。
不特定のだれかにではなく、アラマキくんだけに聴いてもらいたかった。

『うん』

アラマキくんから返事をもらって、ショボンは事の起こりと、
その背景となる過去の出来事を書き始めた。



いまよりももっと子どもだったころ、ショボンは引っ込み思案で、
いつもおどおどと何かを怖がっていた。幸いいじめられるようなことはなかったが、
積極的に友人を作ることもできず、教室では常に孤立していた。

ショボンには姉がいた。姉の名はつーといって、ショボンとは対照的に
活発で笑顔の絶えない少女だった。物心ついたときにはすでに
母を失っていたショボンにとって、つーは姉よりも母に近い存在といえた。

ショボンはつーに頼り切っていた。何をするにしても、どこへ行くにしても、
つーの意見をうかがった。つーはこれではまずいと思ったのだろう。
自分が所属している市の合唱団に、ショボンを連れていった。
まずは自分が歌ってみせて、同じように歌ってごらんとショボンに促してきた。

そこにはつー以外にもたくさんの人がいた。
大人よりも、同年代の子の目が気になった。ショボンは一応真似してみたが、
ほとんど蚊の鳴くような、だれの耳にも届かない息が漏れただけだった。

つーはショボンの頭に手を乗せて、こういった。
『失敗してもいいんだ。ありったけの自分を表現してみな』。
ショボンはうなづいたが、言葉の意味を理解したわけではなかった。
ただただ姉に嫌われたくないという一心で、あらん限りの声を出した。



『おまえ、こんなでかい声だせたんだなあって、姉さん驚いてたよ』

ショボンはそのまま合唱団に在籍した。
ショボンが歌うと、多くの人が上手だとほめてくれた。
ショボンにも、歌えば歌うほど上達していく実感があった。
それが自信にもつながった。初めての友達もできた。

その友達は、ショボンが来るより以前から合唱団に所属していた、
モララーという同い年の少年だった。モララーは頭がよく、
いろんなことを知っていたが、ショボン同様友達がいないようだった。

ふたりは一緒に行動するようになった。
ふたりだけでは危ないと、つーもそこに加わった。
いろんな遊びをして、様々な場所を駆け周った。
合唱でも、息を合わせて歌うことができた。

『姉さんはぼくのこと、自慢の弟だっていってくれたんだ。このころは父さんも、
 発表を見に来てくれてたんだよ。慣れないカメラ操作に、四苦八苦してた』

つーは中学に上がり、合唱団を辞めた。ショボンには学校での友人ができた。
それでも三人の関係は続いた。モララーはだれよりもつーを慕っていた。
表面には現れなかったがおそらく、恋愛感情のようなものもあったに違いない。



発表のときつーが来たことを一番よろこんだのは、
モララーだった。つーは毎回欠かさずやってきた。
ショボンも姉に自分の歌声を披露するのが、いつもたのしみだった。

一年の総決算となるような、大きな大会があった。
団員の気合の入りようもひとしおで、当然ショボンも意気込んでいた。
そのときの曲はショボンの感性とよく合致しており、いままでで一番自信があった。
姉に聴いてもらえる日が待ち遠しかった。

だが、姉が中学の用事で来られなくなってしまった。
つーは中学校でも合唱部に所属し、そちらの方へ出席しなければならなくなっていた。
それでもショボンは、姉がきっと来てくれると信じていた。
しかし、結局つーが、大会場に顔を見せることはなかった。

ショボンは歌いたくなくなってしまった。モララーが慰めて、静止して、
次の機会に聴いてもらえばいいじゃないかといってくれたにも関わらず、
歌うことを放棄して、会場から抜け去った。

『モララーのいうことは、いつだって正しかった。
 間違ったことはいわないと、知っていたはずだったんだ』


会場から去ったショボンは、幽霊屋敷と噂される廃屋に引きこもった。
ショボンはこのとき、具体的に何かをしようと考えていたわけではなかった。
単純に、逃避の場所をここに選んだだけだった。
そのため、いつ出て行けばいいのか、わからなかった。

壁板の隙間から差し込んでいた光が、完全に消え去っていた。
いつの間にか降り始めてきた雨のせいで、廃屋全体が湿り気を帯びていた。
幽霊なんていないという結論がでていても、真っ暗闇の廃屋は怖かった。
ショボンは動けなくなっていた。

ふるえながら座っていると、どこかから名前を呼ばれた気がした。
空耳かと思っていると、声は雨音を越えて、はっきりと聴こえた。
それはモララーと、つーの声だった。ショボンは恐怖心も忘れて、廃屋から出て行った。

声の聴こえる方を目指して、がむしゃらに走った。
急に走り出したせいか、関節や心臓がひどく痛んだ。
耳鳴りのせいでショボンを呼ぶ声も掻き消えた。



ただ体を打ち跳ねる雨音だけが、やかましく響き渡っていた。
ショボンは焦って、もっと急いで走らなければいけないと思い込んだ。

そうして走り続けて、ショボンはようやくモララーを発見することができた。
うれしくて、脇目も振らず駆け寄った。モララーが何かを叫んでいると気が付いたのは、
直射したライトに目が眩んだときだった。

目の前に、走行する車が迫っていた。突然の事態に反応することもできず、
自分の体へと襲い来る車体を呆然と眺めていた。このまま立っていたら
ぶつかるということだけ、いやにはっきりと理解できた。

だが、ぶつかったのは車とではなかった。
ショボンは跳ね飛ばされたが、ほとんど無傷のまま何事もなかった。

その代わり、車の車輪近くで、つーが転がっていた。

ショボンはつーと、モララーを見ていた。
モララーは、雨ざらしのつーには目をくれず、ただ真っ直ぐにショボンを見つめていた。



『そのときのモララーの目は、きっと、一生忘れられないと思う』

モララーは合唱団をやめた。
小学校が別々だったふたりは、中学生になるまで再開することはなかった。
その間モララーが何をやっていたのかは、知らない。
しかしショボンは、合唱をやめずに続けた。

『姉さんが助けたのは、自慢の弟だったぼくなんだ。だからぼくは、
 ずっとぼくのままでいなくちゃいけない。歌の上手なショボンでいなくちゃいけない』

つーがいなくなり、シャキンとふたりで暮らすことになった。
そのときから、シャキンは家にいつかなくなった。遊び歩いているというわけではない。
いつ休んでいるのかわからなくなるほど、仕事に没頭しているようだった。

シャキンは元々口数が少ない。息子のショボンとも、会話らしい会話はしなかった。
ただ、つーとはよく話をしているようだった。つーを通して、三人で家族らしい行事に
参加したこともあった。家族はつーで成り立っていた。

つーの死後、シャキンはショボンと目を合わせようとしなくなった。
本人は否定するかもしれない。だが、ショボンは敏感に察知していた。

ショボンは、シャキンが自分を恨んでいるのだと感じた。
そしてそれは、どうしようもないことなのだと、
もう手遅れなのだと思わざるをえなかった。



歌うしかなかった。いままで以上に、歌うことへ時間を費やした。
もし仮に、シャキンとの仲が改善するとしたら、歌以外の方法はないように思えた。

シャキンはショボンの発表を見に来ることがあった。
つーが褒めてくれるような歌を歌い続ければ、
いつか聴きに来てくれるかもしれないと、そう信じた。

だが、意気込むショボンに変異が訪れた。

声変わりが、始まった。

時間と共に、ショボンの声は低くかすれていった。
どうにかしなければ。調べられる限りの方法を調べ上げ、可能な限り実践した。

かつてヨーロッパで流行った性徴を抑える方法というものを知り、
それを試してみることも考えた。しかしそんなことをしたら、
シャキンがどう思うだろう。踏み切れなかった。

実行した様々な方法は、ある程度の効果をもたらした。
しかし、それは緩和させる、遅らせる、ごまかすといった程度の効果で、
問題の解決を意味することはなかった。



ショボンは歌い続けた。少しでもかつてのように、
褒められていたころの声が出せるよう、努力した。
中学に上がり、モララーと再会し、つーのいた合唱部に所属して、
新たな仲間と知り合っても、思いは変わらなかった。

だがそれも、先の文化祭で瓦解した。もはや、歌う意味がなくなった。

『ぼくはどうしたらいいのかな』

すべてを語り終わって、ショボンはアラマキくんに尋ねた。
助けてほしかった。自分の事を真剣に叱ってくれたアラマキくんなら、
何をするべきか教えてくれる気がした。何といわれても、従うつもりだった。けれど――。

『それはぼくが答えていいことじゃないよ』

アラマキくんは教えてくれなかった。


 






日がな一日、アラマキくんと話をして過ごした。
ほとんど自分のことをしゃべっていたような気がする。
恥ずかしかった思い出も、つらかった、あるいはおもしろかったことも、
思いつく限りを文章にした。携帯を通じての会話は、声を出すよりも本音を話せた。

『ぼく、雑誌に載ったこともあるんだよ。天才とか天使の歌声とか書かれてて、
 えへへ、ちょっと大げさだよね。でも、悪い気はしなかったなあ』

なにより多くの時間を、自慢話に割いた。昔の自分はこんなにすごかったのだと、
知ってもらいたかった。つーがどんなにすばらしい姉だったのか、
モララーがどんなにすごいやつなのか、たくさん自慢した。



『ぼくの料理もね、全部姉さんゆずりなんだよ』

書いているショボンがくだらないと思う話にも、アラマキくんは真摯に
反応を返してくれた。けしてバカにしてくるようなことはなかった。
どころか思わぬ返しを披露して、そこから話題が拡がることも多かった。

姿かたちは見えなくとも、自分とは異なる個性が、
たしかにそこにいるのだと信じられた。デレや部活の仲間たちとも違う。
遠慮のない、けれど安心感のある関係は、久しく忘れていた感触だった。

どれだけの間そうしていただろうか。時間や日付の感覚が薄れていた。
食事などといった生活に必要な行動は、すべてアラマキくん任せにしていた。
アラマキくんと会話する以外のことは、意図的に考えないように努めた。
新着のメールも、中身を確認しようとは思わなかった。

だから、この展開は想定していなかった。



『しょーぼー! 開けてよー!』

インターフォンが連続して鳴らされている合間に、
ショボンを呼ぶ声が響いた。声の主はデレだった。
デレはショボンの家を知っている。予想して然るべき事態だといえた。

ショボンは耳を塞ぎながら、音が止むのを待った。
デレが去るまでの間、アラマキくんが入れ替わってくれはしないかと思った。
気づかれないように注意して、窓から様子をうかがった。外は寒いのだろう。
デレは重そうなコートを羽織っていた。申し訳なかった。

そのとき、デレの顔が上を向いた。ショボンは咄嗟に身を引いた。
見られただろうか。わからない。聴こえるわけがないとわかっていても、
音を立てないよう気をつけた。息を殺しそのままでいると、
ほどなくインターフォンと呼び声の連鎖が再開された。

それもやがて止まった。今度はより慎重に、窓の外を覗いた。見当たらない。
諦めて帰ったのだろうか。デレにしてはあっさり帰ったような気もする。
ショボンは気になって、確認のために階下へ降りた。玄関扉を少しだけ開いて、頭を出した。



ζ(゚ー゚*ζ「……おひさ」

デレがいた。徳福屋の文字が印刷された紙箱を、顔の位置まで持ち上げている。
寒さのせいか、顔がいくぶん赤くなっているように見えた。

窓から覗いていたのは、やはりバレていたのだと考えるしかなかった。
呼びかけを繰り返したのは、気づいていない振りをするためか。
その後は窓から死角になる場所へ隠れて、ショボンが
確かめに来るのを待っていたのだろう。

ζ(゚ー゚*ζ「さ、入ろ入ろ! おじゃましまーす!」

デレは返事も待たずに、ショボンの背中を押して強引に家の中へと上がってきた。

ζ(゚ー゚*ζ「限定チーズタルト、並んで買ってきたの。一緒に食べよ!」

デレは箱を開けると、中から取り出したチーズタルトをショボンに手渡してきた。
断るわけにもいかず、ショボンは両手で受け取った。タルトのしっかりとした感触に
ゆびを這わせながら、さっそくパクつき始めたデレを眺めた。



デレは一方的に話しかけてきた。一見して景気の良い、
何もかもがうまくいっているかのような口ぶりだったが、
言葉の端々に思わせぶりなニュアンスが含まれていた。

ショボンがいなくても平気だと安心させるのと同時に、ショボンが
いないと大変なのだと、自尊心を傷つけないように苦心しているのが
わかった。心づかいはありがたかったが、うれしいとは思えなかった。

ζ(゚、゚*ζ「いまね、モララーのやつが来てるの」

デレの語調が、淡々としたものに変わった。デレはいう。
文化祭から四、五日ほど経過したある日、不意にモララーが第二音楽室へ
やってきた。モララーはショボンの代わりを務めるといって、勝手に参加した。

意外なことに、モララーはソロパートもそつなくこなした。
さらにそれを見ていた渋澤が、一も二もなく採用してしまった。
反対しようにも、その理由がなかった。以前のように邪魔をすることもなく、
それどころかだれよりも熱心に取り組んでいた。

もともと臨時部員との連携は取れていたので、合唱にも支障はでなかった。
ペニサスやヒートとも衝突はなかった。打ち解けたとはいわないまでも、
問題なく接することはできているようだった。
デレにしても――いまは、嫌いではなかった。


ζ(゚、゚*ζ「それでも私は、ショボンと一緒に歌いたいんだよ」

ショボンは身構えた。ついに来るべき話題が来た。デレが何やら説得していたが、
ショボンはほとんど聴いていなかった。今までの話に大した意味はなく、この話題こそ、
デレがショボンの下へ訪れた最たる理由のはずだ。

強要しにきた、というわけではないのだろう。それくらいはわかる。
善意で、本心から心配しているのだと思う。一緒に歌いたいという言葉も
半分は建前で、立ち直ってほしいという憂慮こそが本音なのだと思う。

だからこそ、会いたくなかった。いい加減な相手なら、こちらも気に病むことはない。
適当にあしらってしまえば済む。デレを見た。この寒いのに、ひたいには
うっすらと汗が光っている。直視できなかった。

携帯を開いた。デレが目の前にいる。きっと気分を害することだろう。
それを承知の上で、ショボンは携帯を打ち始めた。もっと賢い選択肢が
あるのかもしれない。しかし、ショボンにはこの方法しか思い浮かばなかった。

ζ(゚、゚*ζ「ねえ、無視しないで。私だって、怒るときは怒るんだよ?」

案の定気色ばんだデレから、突如振動音が響いた。ショボンは自分の携帯を、
ゆびで軽く叩いた。デレは困惑した態で、プリクラの貼られた携帯を取り出した。
デレが携帯を開いても、ショボンには見えない。だが、内容はわかっていた。
携帯には、こう書かれている。



『声がでないんだ』

デレの視線が、携帯からショボンへと戻った。そんな顔をしないでほしい。
みじめさを痛感してしまう。デレが、部員のみんながいい人ばかりだからこそ、
期待に応えられないという事実に堪えられない。ショボンは次のメールを送った。

『こうしてるだけで吐きそうなんだよ。デレ、お願いだから』

最後の言葉まで打ち込むことはできなかった。
察してほしいと願うのは、虫のいいわがままだろうか。ショボンは視線を伏せた。
周囲の様子に気を配り、椅子を引く音が聴こえてくるのを待った。

ζ(゚、゚*ζ「ショボン、声はでないの? それとも出したくないの?」

待ち望んだ音は得られなかった。代わりに、質問を投げかけられた。
ショボンには答えられない。

ζ(゚、゚*ζ「ショボンが歌いたくないっていうなら、残念だけどそれはしょうがないよ。
      ショボンの自由だもん。だけど勘違いしないで。合唱部を辞めた時点で縁を切ろうとか、
      そんなことは絶対にありえないから。歌が上手だからショボンと友達になったんじゃないんだよ。
      ショボンより前に歌がくるんじゃない、歌よりもまず、ショボンなの」

デレが身を乗り出してくる気配が伝わった。デレの声はいままでよりも真剣で、
かつ鋭い口調をしていた。胃がひっくり返りそうだった。



ζ(゚、゚*ζ「なんでもかんでも溜め込まないで。迷惑だと思っても周りに打ち明けて。
      もっと友達を、私たちを頼って。嫌な話だから遠慮して聴かせない。
      そう考えるのもわかるよ。だけどね、そんな気づかい、ぜんぜんうれしくなんてない。
      
      それは、信頼してないって告白してるのと同じなんだよ。私の器はおっきいんだ。
      ショボンが思ってるよりもずっと、何百倍も受け止められるんだよ。
      ショボンはもっと、自分を晒すべきだよ」

ショボンは開きっぱなしの携帯で、新しいメールを書こうとした。
しかしそれはならなかった。手元まで伸びてきたデレのゆびが、
二つ折りのショボンの携帯を閉じてしまった。

ζ(゚、゚*ζ「伝えたいことがあるなら、直接口でいって」

待ち望んでいたはずの、椅子を引く音が聴こえた。その音は長く尾を引いて、
消えてしまうのが惜しいように思えた。足音がショボンから遠ざかっていった。
聴こえなくなってしばらく経ってから、玄関扉の閉まる振動が伝わった。

チーズタルトだけが残っていた。甘くておいしい、徳福屋の限定チーズタルト。
一日数個しか作られない、憧れのお菓子だ。ショボンは口を開いた。
だが、結局口に入れる前に置いてしまった。



『いる?』

アラマキくんも甘いものには目がない。促すまでもなく、
すぐさま食べてしまうだろうと思った。予想通り、赤い印象が視界を覆った。
ところが、意識がもどったあとも、チーズタルトはそのままの形で残っていた。

『声がでないって、ほんと?』

ショボンは答える代わりにうなづいた。嘘ではなかった。
通常の呼吸には支障なかったが、声を出そうとした途端に気道が閉じ、
息を吐き出せなくなった。

『もう歌うのはいや?』

矢継ぎ早に浴びせられた質問は、頭の中に様々な言葉を喚起した。
思いつくままに携帯へ打ち込んでいく。しかし、どうにもまとまらない。
気持と文章が乖離しているような気がする。ショボンは一度すべて消して、四文字だけ打ち直した。

『いいんだ』

『何がいいの?』

まだ質問は続く。

『全部。このまま家にこもって、アラマキくんと話していられれば、それでいい』

『それがショボンの望んでいること?』

『わからない。何かをしなきゃいけないって、焦りみたいなのはある。
 だけど、どうすればいいのか、ぼくにはわからない。だからもう、いいんだ』



『うそだね』

携帯が軋んだ。知らず、手に力がこもっていた。

『焦燥感があるのは、どうすればいいか本心ではわかっているからだよ。
 本当にどうでもいいなら、苦しんだりなんかしない。大切だから、簡単に切り捨てることができない。
 大切であればあるほど、真正面から向き合うのが怖くなってしまう……』

胸をつかんだ。皮が引っ張られて、痛い。
けれど、こうしていないと、携帯に書かれていく文章を読むことができなかった。

『だけど、そこで留まっちゃいけない。やりたいことがある間、時は薬にはならない。
 動かないでいても、結局苦しいままだよ』

『それじゃあ、アラマキくんが教えてよ』

子どもっぽい反抗心。しかし、それだけではない。
入れ替わる前に、続きの文章を書いた。



『アラマキくんの言うことなら、何にだって従うよ。勇気だっていくらでも出せる。
 がんばって声も治すようにする。だから教えてください。ぼくはどうしたらいいの?』

すがらせてほしい。突き放さないで。ぼくに理由をください。
ショボンが書き終わってから、長い間入れ替わりは訪れなかった。
呼吸が荒いのは、乾燥した空気が原因だろうか。外からは自然音が聴こえる。
なのに、家の中には何もない。

書いた文章を消そうと、ショボンは携帯を操作した。
その瞬間、視界に赤色が差し込んだ。

『自分が何をしたいのか、どうしてこだわるのかは、自分で気づかないと、だめだ』

アラマキくんからの返答を受けて、ショボンは支離滅裂な反論を書き連ねた。
何でもいいから、書かずにはいられなかった。
しかし、いくら書いても、アラマキくんは返事をくれなかった。


 






体中が痛かった。ショボンは何もやっていない。原因はアラマキくんだ。

アラマキくんとは音信不通になっている。ショボンがいくら話しかけても、
一向に返事はなかった。しばらくは一心不乱になって携帯に打ち込み続けていたが、
それもやめた。一方的な語りかけは、むなしかった。

といって、アラマキくんがいなくなってしまったわけではなかった。
むしろ、積極的に体の主導権を支配していた。昼夜を問わず、ショボンの意識は
途切れた。睡眠と覚醒を無差別に繰り返していると、時間の感覚が狂った。

狂ったのは時間だけではない。体が気だるく、思い通りに動かせなくなっていた。
筋肉や関節が熱を持って、意識もはっきりしなかった。アラマキくんが自分の
時間を使って、ショボンの体を酷使しているようだった。

はっきりしない意識の中で、ショボンは自分に向けられた言葉の数々を
思い起こしていた。思い起こさざるをえなかった。アラマキくんとの会話で
発散できていたものが、今は自分の中で鬱積している。
ましてや声が出せない。独り言すら不可能だった。



意味もなく家の中を歩き回った。階段を登るとき、熱を持った膝が砕けそうだった。
しかし本当に苦しいのは、膝や腱ではなかった。出張前にシャキンが漁っていた箪笥は、
閉じきらずに開いていた。必要のなくなった衣服が、無造作に放り出されている。

そこに体温は残っていない。
いくつかは箪笥に戻し、使った跡のある衣服は洗濯籠に入れた。
洗濯籠には、着た覚えのないショボンの衣服が投げ込まれてあった。
鼻を近づけ、抱きしめた。乾いた汗の臭いがした。

楽譜を取り出して、歌詞とおたまじゃくしを眼で追った。
想像の中で、理想の音色が再生された。しかし、途中から音が止まった。
ソロパートに差し掛かった辺りだった。

ショボンは、ファイルしておいた合唱団時代の楽譜も読み直した。
姉の、そしてモララーの歌声が聴こえてくるようだった。
その間に、自分の声を合わせた。しばらくは順調だった。
だが、ふたりの声が消えた。ファイルの中ほどまで進んだところだった。

発散できずに溜まったものが、さらに重さを増した。姉と会いたかった。
思い出そうとしても、顔がかすんでしまう。もっと、生きているうちに
姉の姿を眼に焼き付けておくんだった。そこまで考えたところで、ふと気がついた。



アルバムがあるはずだ。シャキンは発表を見にくるたび、カメラを携帯していた。
そのとき撮った写真が、どこかにある。捨てたりしていなければ、
それはおそらくシャキンの部屋にあるだろう。

ショボンは階段を降り、シャキンの部屋へ向った。
先程入ったときには見当たらなかった。注意して探したわけではないが、
物の少ない父の部屋で、アルバム程度の大きさを見逃すとは思えない。
きっと、眼に見えない所に保管されてある。

閑散とした部屋に、押入れの荷物がうず高く積み上がった。
押入れが空になっても見つからず、今度は天袋を捜索した。

ほとんどの荷物を取り出した奥の奥、日常では絶対に手の届かない場所に、
口をガムテープで閉じられた紙袋があった。二度と開けることはないという意思を感じた。
その中に、アルバムはあった。

写真は父らしく、几帳面に年代順で並んでいた。
今の自分よりはるかに小さなつーの姿を見るのは、奇妙な感じがした。
そこにはおどおどと、情けない顔をしたショボンもいた。
たぶん、いまも対して変わってはいない。



年代が進むごとに、写真と記憶が符合していった。それにつれて、
胸苦しさにも拍車がかかった。しかし同時に、ショボンはある既視感に捉われていた。
この苦しさと同質のものを、かつてあの廃屋でも感じたことがあった。

記憶と一致するつーの写真を見つけたとき、ショボンはアルバムを閉じた。
いてもたってもいられなかった。意識が混濁している。
ただ、体は勝手に動いた。ショボンはアルバムを持って、家を出た。

姉が発表を見に来てくれなかった日、何を思ってあの廃屋にこもったのか、
思い出さなければならない。歌うことを放棄した理由を。
姉に、何を聴いて、見てほしかったのかを。

廃屋の片隅に座った。そこは、あの日ふるえていたのと同じ場所だった。
ショボンはアルバムを開いた。始めから最後まで見終えたら、また始めから繰り返し見た。

何度も見返して、ショボンは変化に気がついた。
写真に映った自分は、始めのうちこそ情けない顔をしているが、
次第にはっきりと、表情に自信が満ちてきていた。




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