ブーンがシリアルキラー(連続殺人鬼)になったようです。 第十話「燎原之火」
俺の頭の中にあるのは火だけだ。火が俺の主人だ、俺は火に従う
―――ピーター・ジョージ・ディスデール(ブルース・リー)
26人の死者を出した放火の犯人。上の台詞は公判中の供述より。
「で、どこへ行ってた?」
合流してきた少女を見るなり、日浦はそう言った。
声には隠しきれない怒りが篭っている。
少女が勝手に彼等の元からはなれて単独行動をとってから丸々一日が過ぎている。
日浦は煙草をふかしながら、城嶋は手に持った書類を読みながら昨夜に訪れた路地裏の近くの廃ビルを訪れていた。
昨晩見つけた連続猟廃ビルの中の屠殺場を発見し、それが昨夜に何者かに打ち負かされ、死亡したと推測される連続猟奇殺人鬼の作ったものと判明。
検察達に廃ビル全体を調べさせているところで、丁度少女の携帯から電話がかかってきて、ここで落ち合うようにしたのだ。
「いや、ほら、買いたいものあったし。あんた等の支給する服って、地味なのばっかだし。」
しかし少女は日浦の怒りなど何処風とでも言うかのように、飄々とした態度でけろりと答える。
自分の行動には正当性があり、それをとやかく言う日浦の方がおかしい。
そうとでも言わんばかりの口調だ。
「目立たないように地味なのにしてるんだよ。立場分かっているのか?」
日浦は目を閉じ、少女の挑発するような笑顔を見ないようにしながら、平坦な声で告げる。
極力怒りを抑えて普段どおりの声にしようとして、失敗してしまったような、そんな声だった。
だが、日浦の努力を嘲るように少女はおどけた口調でさらに言葉を発した。
「あんた達こそ、私が居ない間男二人で何してたの?未成年の女の子が居ない間、お偉いさん達が接待受けるような店に行ってたんじゃないの?」
そこで日浦の理性が決壊。
目の前の人を子馬鹿にした態度をとる少女を”処理”してしまおうと右手を伸ばす。
勢いをつけるために振りかぶったり、肩を動かしたりという予備動作は一切無し。
にも関わらず、日浦の腕は信じられないほどの速度で少女の首へと伸ばされる。
それに対し、少女は無拍子で打ち出された日浦の腕を、後ろに下がってあっさりかわした、ように見えた。
だが実際はかわしたはずの日浦の腕が再び少女に迫り、少女の首筋に触れていた。
瞬間、少女の顔がふざけ半分のものから真剣なものへと変わる。
少女が距離をとり、睨み合う事数秒。
先に折れたのは日浦だった。
「・・・・・・・・・次は無いぞ。」
再び理性が怒りに打ち克ち、押さえ込んだのだろう。
少女や城嶋の二人を”使え”というのは日浦の上の人間からの命令だ。
それを個人的な感情やその場の怒りに任せて勝手に処分する事は出来ない。
日浦は一度舌打ちをすると、気持ちを切り替えるかのように、あっさりと構えを解いた。
「つまり、私の処理を決定するまでには、後一回チャンスがあるって事?。」
と、少女が挑発するが、日浦はもう応じない。
日浦の後ろで城嶋が手にしていた書類を眺めているが、少女と日浦のやりとりには目もくれていない。
ただ「ヘラヘラ」と「ニコニコ」の中間のような笑いを顔に張り付かせて、手に広げた書類を見ている。
そんな日浦に近づくと、少女は再び口を開いた。
「なにそれ?」
「例の、猟奇殺人鬼殺しの最有力候補。その住民票と学校の名簿の写し。見る?」
「いちいち聞いてないで見せろっての。気がきかないんだから。」
そう言って少女は城嶋の手から書類を乱暴に取り上げる。
「・・・・・・・・・、へーえ。」
書類を眺めていた少女の目が、学校の名簿の写しの写真部分を見て細められる。
「・・・・・・・・・内藤ホライゾン、ね。」
「知っているのか?」
少女の態度に日浦が問いかけた。
が、次の瞬間には少女の顔は何時もの他人を小ばかにするような笑顔に変わっている。
「別にぃ。」
日浦に答えを返しながら、少女は考えた。
次はどうやって彼等から単独行動を取ろうか。
何時もと変わらない、帰りのHR終了を告げる鐘の音が響く。
一月も終わりに近づいているが、同級生たちは未だに冬休み気分が抜けていないのか、憂鬱そうに授業を受けている。
いや、違う。
僕達の間に蔓延している暗鬱さの正体、それは部室棟からの自殺者、文芸部の部長の佐伯美鈴だ。
部長が死んでから一週間が過ぎている。
それでも部長は僕達の心に大きな影を残している。
部長が自殺した次の日、学校では全校集会があり、部長の自殺は校内中に知れ渡った。
部活内での部長ばかりしか見たことが無い僕は知らなかったのだが、部長の交友関係はかなり広く、多くの人間が部長の死を悼んでいた。
中には、全校集会中に泣き出す子まで居た。
彼等、彼女等の話に出てくる部長は「明るくて誰とでも明け透け無く話をする、後輩の面倒見もいい人」というものだった。
部室の中での部長とのギャップに驚いたが、”部長が部長で居た”のは部活内だけだったようだ。
先生たちも揃って「自殺するような子には見えなかった」と言った。
友人関係も、家庭環境も良好、学校の成績も悪くは無かった。
一体何が部長を自殺へと走らせたのか。
あの日、部室で吐露した部長の本音は、一体何処から来たのか。
部長は何からあんなにも逃げたがっていたのか。
鞄にノートを詰めて教室から出ようとした時、僕を睨むツンの視線に気が付いた。合図だ。
僕は軽く、周囲から不自然に思われない程度に頷いて、教室から出て行く。
廊下を歩いていて、僕は初めてポケットに入れられていた自分の手がナイフを握っている事に気が付いた。
「―――――――――ッ!!!!」
なんだ?何なんだ僕は?
ツンに睨まれて、ツンを見て、ツンの白い首筋を見て、僕は何をしようとした?
なんで僕はナイフなんて掴んでいるんだ?
一体、何をするつもりだったんだ?
殆ど無意識下の行動だったため、どれほど考えても答えは出てこなかった。
僕は思考を停止させて廊下を歩き続ける。
行き先は、文芸部の部室。
部長が居なくなっても、部活は無くなっていないのだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
周囲を本棚に囲まれた部室の中、僕は静かに本を読む。
部長が居なくなって、毎日この部活に参加しているのは僕一人だけとなった。
人が一人減っただけで、今まで対して広くも無いと考えていた部室がやけに広く思えた。
今まで部長は、どんな気持ちでこの広い部室の中で一人本を読んでいたのか。
考えながら、本のページをめくる。
何故か、この部室の中からあの静かで心地いい雰囲気は消えていた。
この部活の雰囲気が好きなのではなく、決して僕に踏み込みすぎずに、
それでも側に誰かが居てくれるという雰囲気を気に入っていた事に、僕はやっと気がついた。
やがて、部活終了を告げる鐘が鳴った。
部活の二時間半が、随分長く感じた。
僕が部室棟から出ると、そこには部活を終えた何人かが集まっていた。
何事かをごちゃごちゃ話し合っているが、大体の想像はつく。
おそらく、部長の自殺の話だろう。
彼らの前、部室棟のちょうど屋上の下はテープが張られて立ち入り禁止になっている。
彼らはしきりにそれを指差したり眺めたりしながら、時々わっと笑いたてていた。
部長と日常生活において何のかかわりの無い人間にとっては、部長の自殺など退屈な日常の中で偶然起きた“ちょっと刺激的で珍しい事”程度でしかないのだろう。
知り合いとの話の種ができた、くらいにしか思われていないのかもしれない。
少し苛苛したが、それだけだった。
今はさっさと家に帰り、今日の“狩り”の用意をしておきたかった。
早く、ツンに会いたかった。
一人で居るのが、辛かった。
深夜、気が付けば僕は夜の街をさまよっていた。
僕の足は自然と人の少ない場所を選んで歩き、ツンとの待ち合わせの場所へと向かう。
しかし、ツンの待ち合わせの時間まではまだ三十分近くある。
その時、不意に道の前方から僕に向かって、一人の男が歩いてきていることに気がついた。
日焼けした肌を持つ、僕よりも年上の精悍な顔つきの男だ。
濃い茶色に髪を染めていて、髪の毛と同じ色のファーのついたジャケットを着ている。
そして、男の胸に鍵穴が無いのを確認して、僕はその場に立ち止まってしまう。
2ちゃんねらーだ。
ラスカやドクオの件があったので、僕は警戒して軽く身構える。
が、男は立ち止まる僕には構わずに、僕の隣を悠々と擦れ違っていく。
「気をつけろ。お前はもう連中に完全に捕捉されてる。」
通り過ぎる瞬間、男が僕の耳元に声をかけてきた。
はっきりとした、やけに通る声の持ち主だった。
「・・・・・・ッ?」
僕は慌てて振り返るが、すれ違ったばかりのはずの男はもう居ない。
捕捉されてる?
誰に捕捉されてるって?
連中?
警察か?
考えれど、答えは浮かんでこない。
一体誰が――――
そう思ったその時、僕は何時の間にかツンとの待ち合わせ場所の高架下に辿り着いていた事に気がついた。
昼だろうと夜だろうとお構い無しに薄暗い高架下の壁には、そこら辺のDQNがスプレーで描いたと思われるグラフィティアートが所狭しと描かれている。
そして天井には高架下の空間を完全な暗闇では無く、薄暗闇にしている原因の電灯が、点いたり消えたりを繰り返しており、その点滅する灯に照らされる人影が一つ。
ツンではない。
ツンにしては、いや、平均的な成人の身長からすれば随分低い。
その人影は僕を見るなり右手を高く掲げて甲高い声で挨拶してきた。
「よ、オニィサン、探したよ。元気だった?」
間違いなく、ラスカは僕を「探していた」と言った。
―――なるほど、コイツか
僕は正面からラスカの目を見据える。
その眼光に、以前のようなふざけた雰囲気は無い。本気だ。
僕はポケットの中の鍵を握り締めた。
――――自分は一体何故、監視対象の前に姿を現してあんな忠告をしたのだろうか。
爆弾魔のラスカとかいう少女と対峙する内藤を双眼鏡で監視しながらも、フサギコは自らの感情を整理する。
彼はこれまで、主人の命令により内藤を監視し続けていた。
監視とは言っても、一日中見張り続けているわけではない。
彼は根気と体力には自信があったが、監視というのは根気と体力だけでは続けることは出来ない。
対象の全てを監視するには、監視を続けるための根気と、対象の予定外の行動への対応力、そしてなによりも、運が問われる。
彼とて人間である以上―――通常の人間からかけ離れた力を持つ彼が未だに人間と呼べるのかどうかはともかくとして―――対象本人にとってすら不測の事態が突発的に発生した場合、
監視者がその行動を監視できるかどうか、偶然意識を向けていなかったり、視線をずらしていないかどうか、というのは最終的には運に頼るところが強い。
ましてや、警察のように複数で容疑者を見張るというのならともかく、彼一人で24時間対象を監視し続けるのは不可能だ。
だから彼は、監視対象の内藤ホライゾンという少年が”2ちゃんねらーになる”可能性の高い夜、日が暮れて以降を監視するようにした。
緊張を保ったまま監視できる時間が限られているのなら、最も内藤が事を起こす可能性の高い時間帯だけ見張ったほうが効率的だ。
そもそも昼間のうちに内藤が別の都市に移動したとしても、彼ならば察知する事は容易い。
彼の鼻は、2ちゃんねらーに成って以来、完全に人間の、いや、生物の持つ嗅覚の範疇を超えてしまっていた。
2ちゃんねらーになったばかりの頃は、多少嗅覚が優れている、程度のものだったのが、今では1km先の臭いをかぎ分けられるだけでなく、
本来なら無臭のはずの物や、人の感情の変化すら、近くのものに限り集中すればかぎわけられるようになった。
彼の主人は彼の能力については「存在の根源から漏れ出す雰囲気や印象をそのまま臭いとして嗅ぎ取っている」とかなんとか言っていたが、彼はよく理解できなかった。
「・・・・・・・・・・・・。」
真剣に、内藤と少女との対峙を眺めていたフサギコの顔が、自身の双眼鏡を握る腕を見て笑みの形に綻ぶ。
彼の手は日に焼けて茶色がかっている。
彼はその肌の色を見るたびに、誇らしい気持ちになる。
彼の肌を見た人間は大抵、彼を南方の出身と見るのだが、実際は東北地方の狩人、またぎの家にうまれた。
この日焼けは、彼が主人に仕えて日本中をかけまわり、様々な対象を監視し、時には夏場に丸い一日屋外で日の光を浴びている内に自然とできたものだ。
彼にとっては、この日焼けこそが彼の主への忠誠の証であり、主のために働き続けてきた証なのだ。
彼の主人は、なんというか、内藤のような特異な2ちゃんねらーを観察し、情報を集め、次なる研究の糧としている。
彼はもう二年近く、その主人の手伝いをしていた。
そこでふと、彼は自分が内藤に対して忠告をした理由に気がつく。
―――あいつ、俺に似ていたんだ。
あの時、居週間前の日が暮れたばかりのあの夜、彼は自らの親しい人間を死なせないために走る内藤を見てしまった。
日が暮れて監視を始めたばかりの彼の目に、なりふり構わずに息を切らせながらも必死で駆ける、内藤の姿が映ってしまった。
それは主人のために日本中を駆け回っていた彼自身に、あまりにも似すぎていた。
考えつつも、再び視線を内藤と少女に戻す。
―――俺には仕えるべき主人が、自分を抑えるべき目的があった。だが、あいつには―――――
その時、彼の嗅覚が臭いの流れの変化を察知した。
慌てて余分な思考を停止し、用意していたデジカメを回す。
内藤と少女の周囲の”臭い”が変化していた。
それは彼が2ちゃんねらーを監視するようになってから最も嗅ぎなれた臭い―――
―――殲場の臭いだった。
お互いに、点滅を繰り返す電灯に照らされながら対峙する。
余裕のつもりか、ラスカはニヤニヤと笑うだけで、身構える様子は無い。
僕は何時襲い掛かられてもいいように、家の鍵を自分の胸の鍵穴へと持っていく。
鍵を開けると、カチャリという何時もの心地いい音。
そして僕の世界はクリアになる。
「へぇ、なんか感じ変わったじゃん。最初は普通の人間だと思ってたのに、急に2ちゃんねらーっぽくなったけど?どうなってんの?」
ラスカが嬉しそうに問いかける。
「そんな事よりも、僕を探してたってのはどういうことだお?どんなわけがあって僕と戦おうとしてるんだお?」
「”質問に質問で返すんじゃねえッ!”とでも言ったほうがいい?」
「これから死ぬ人相手にまともに会話してもしょうがないお。」
「ハハ、確かにそりゃそうだ。これから死ぬ方の人の意見に賛成ぇ。」
「いや、普通に死ぬのはおまえだお。」
「いやいや、道考えてもオニィサンの方でしょ。」
会話しながらも相手の隙を伺う僕に対して、ラスカは余裕の態度を崩そうとしない。
随分不敵な相手だが、鍵が開いた今の僕に躊躇いも恐怖も過剰な警戒心も無い。
すぐにでも目の前のガキのヘラヘラした表情を切羽詰ったものに変えてやるつもりだった。
「ところで、私は最高に優しくて最強に慈悲深いから、最後に何か言い残したい事があれば、聞いてあげるけど?」
「それが遺言かお?随分と変わった遺言だお。」
「OK、決めた。まずはふざけた事ばかり喋るその喉から掻き切ってあげるよ、オニィサン。」
「わざわざおまえがしなくても、僕が掻き切るからいいお。お前の耳の方をな。」
「ハハ、あんた、ホントに面白いね――――
――――調子に乗んなよド新参。」
そのまま睨み合うこと数秒後、
唐突に僕等を照らしていた電灯の点滅が止まった。
高架下に、完全な闇を作る事で。
瞬間、僕等は動いた。
ラスカはカッターナイフを、僕はバタフライ・ナイフを手に握り、相手の肉に突き立てるべく振るう。
お互いの間合いが一瞬にして詰まり、ぶつかり合ったお互いの得物が火花を立てた。
薄いカッターナイフの刃に僕のナイフの刃が食い込む。
得物の強度や力の差を考えれば当然だろう。
たとえば、拳で相手を殴ろうとするとき、どうしても体の大きい方、要するに腕の重い方が相手に与えるダメージは大きい。
小学生のガキと高校生の僕とでは、単純な膂力に雲泥の差がある。
しかし、相手も僕も2ちゃんねらーだ。常識など通じない世界の住人となっているラスカが、見た目どおりの力しか持って居ないはずが無く、
僕の腕力は僅かにラスカに勝っているのみのようだ。
だが、僕の方が力が強い事には変わりない。僕はそのままナイフを押し込み、カッターナイフをへし折ろうとする。
すると、ラスカはあっさりと後ろに後退。
急に力を加える対象を無くした僕は、多少前のめりになりつつも、慌てて体勢を整える。
そこへラスカの二撃目が来た。
単純な腕力勝負では僕に分があるが、やはりすばしっこさとなると、手足の短い分小回りの利くラスカにアドバンテージがある。
一旦距離を取るためにバックステップで下がる僕に対し、ラスカは左手をジャケットのポケットに突っ込むと、、金属片を指先でつまんで投擲。
その場から跳躍する事で間一髪、回転しながら跳んでくる金属片を避ける。
キン、という金属が硬いものとぶつかった時特有の音が響く。
僕は体勢を立て直そうとするが、そのときには既にラスカの腕が再びジャケットのポケットに伸びている事を確認。
今度は人差し指と中指、中指と薬指、薬指と小指の間の隙間に一気に金属片を三本つまみ、順に投擲していく。
今度は比較的冷静に対処する事ができた僕は、飛来する金属片の正体に気づく。
ラスカがジャケットのポケットに入れているのは、文具店等で売られている、カッターナイフの刃を何十本かまとめて入れてあるケースだ。
肩、肘、手首、指の全ての間接を無駄なく使って投擲されるそれを、ただのカッターナイフの刃と侮る事はできない。
骨や動脈まで達することは無いだろうが、肉に刺されば動きを阻害される。
また、同時に投げてくるならともかく、それぞれの指の隙間に握ったカッターの刃を一本ずつ順番に投げてくるのだから質が悪い。
一投目、二投目を交わした僕の、ちょうどその場から飛びのいて一瞬両足が注に浮いた瞬間を狙われて三投目が迫った。
僕は左のパーカーの袖を左手で掴み、手の甲を覆い隠すようにすると、その腕で回転しながら飛来するカッターの刃の側面を裏拳で叩き落とす。
回転しているため、前方にある物体へは刺さりやすいが、回転して円を作ったナイフの側面には攻撃を当てやすい。
だが、裏拳でカッターの刃を叩き落としている内に、ラスカは僕の懐目掛けて飛び込んできている。
やばい。左手で裏拳を放ったばかりの僕の左半身は隙だらけだった。
慌てて左足を下げて、右手が相手に向くように構えなおす。
その時には既にラスカはカッターを振り下ろす体勢に入っていた。
やはり、早い。
だが、それだけだ。
ラスカはカッターナイフでの戦い方に精通しているだけで、戦いに精通しているわけではないようだ。
どういう訳かは分からないが、動きそのものが早くて、カッターの振り回し方を知っていても、ラスカは近接戦闘には慣れていない。
僕は右手のナイフで辛くもラスカのカッターを受け止め、押し返す。
ラスカは僕の力に逆らう事無く一歩下がり、再び素早い体重移動とステップで僕の懐に踏み込もうとする。
僕はラスカに向けていた右手を後ろに引いて振り上げ、勢いをつけて切りつける、と見せかけて前に出した左手をそのままラスカの顔へと伸ばす。
お互いに刃物を持った時点で、無意識のうちに刃物による攻撃しかしてこないと錯覚していたラスカは当然面食らい、動きに停滞が見えた。
僕はその隙を見逃さず、手首から先の力を抜き、手首の間接から先を鞭のように振るう。
振るわれた指先がラスカの目の前で高速で動き、フラッシュさせる。目潰しだ。
このまま眼球をついて文字通り目をつぶしてやっても良かったのだが、さすがに一瞬の停滞でそこまではできない。
ラスカが妨害された視界の中で大雑把にカッターを振るうが、僕はあっさりとそれをナイフで受け止め、カウンター気味に手刀を首筋目掛けて放つ。
手刀と言っても、手の小指側を使った普通の手刀では無い。
肘から先の前腕全てを使ったアックス・ハンドだ。
ラスカは空気を裂いて放たれた僕の手刀に気づき、なりふり構わずにその場から離れようとする。
が、間に合わないと判断したラスカは後方に飛んで衝撃を緩和しようとする。
そこへ僕の前腕、ちょうど肘と手首の中間がラスカの首筋へと入った。
ラスカはよろめくように僕から間合いを取る。
体勢を立て直して、僕へと向けられた視線には、既に先ほどまでの余裕は無い。
やはり、ラスカはカッターの扱いには慣れているが、近接戦闘に対する知識は殆ど無い。
刃物を持てば、無意識のうちに刃物のみによる攻めになってしまう。
それは単純に、刃物を握っていない手を切ってしまわないようにするためだ。
片手は刃物、もう片方の手は素手で乱戦になってみればわかるが、無我夢中になると、ストレートを出したばかりの自分の拳を急いで出したナイフで、
誤って貫いてしまうのではないか、という恐怖が多少なりとも生まれてしまう。
それに気づいて利用するのと、自分もそうだから相手もそうなのだろうと無意識に思ってしまうのとでは、戦いの中で取る戦術に明確な差異が出てしまう。
そこに僕が付け入る隙があった。
見れば、ラスカが右手に握ったカッターナイフも半ばからへし折れている。
ほとんど強度が無いに等しいカッターでナイフと打ち合えば当然といえば当然だ。
「やるね。新参の癖に全然”やる”じゃん。ホントに新参?あんたが殺しを始めたのは最近だって聞いたんだけど?
しかし痛いね、痛い。無茶苦茶痛ぇよ。このまま『ドーン』とかいう効果音で再起不能(リタイア)しちゃうかと思ったじゃん。」
首筋を押さえながらラスカが言った。
僕を相手に遅れを取ったというのに、その顔に悔しさや怒りは全く見られず、再び余裕が戻っている。
「そういう台詞は、少しでも”やる”奴が言わないと似合わないお。」
「あまり私を怒らせない方がいい。」
僕の皮肉たっぷりの挑発に、台詞とは裏腹に楽しそうに笑いながら間髪いれずに返事を返してきた。
言いながらも、刃の折れたカッターを捨て、懐から新たなカッターを取り出して刃を伸ばす。
「”遊びは終わりだ”とでも言ったほうが盛り上がる?
ラスカはそう言うと、自らの腰の両側面にベルトに引っ掛けている鉄の輪の内、左側のものを取り外す。
例の、十本前後の鎖が付いている、鍵束に使われているような輪だ。
そのまま同じくベルトに取り付けられた、鎖の先端が押し込められているタバコケースのふたを開くと、鎖の先端を取り出した。
それぞれが長さの違う鎖の先端に付けられていたのはカッターの刃だった。
成るほど、本気になるのはこれから、というわけか。
「ああ、痛ぇ。こんなに酷いことされたのは初めてだよね。ごめんなさいしてもらわなくてもいいから、仕返ししなくちゃだよ・・・・ねッ!!!!!」
語尾に不自然に力が入ると同時に、ラスカの輪を握った左手が僕に向けて伸ばされた。
輪に繋がれた十本ほどの鎖のそれぞれの先端についたカッターの刃が銀光となって僕に襲い掛かる。
輪を握るラスカの左手はともかく、先端の刃は殆ど残像しか目に映らない。
鞭のように反りつつも僕に伸びる鎖が、僕に触れようかという瞬間、ラスカの手が伸ばされた上体から退かれた。
急激な方向転換は鎖をあっという間に伝わり、先端の刃が高速でひるがえる。
丁度、人を切りつけるかのように刃が動いた。
僕はラスカの手の動きだけで勘をつけて、その場から飛びのき、なんとかそれをかわす。
が、ラスカはさらに鉄製の鍵束ならぬ鎖束を振るう。
僕はそれをかわし続けるしかない。
腕の先だけを動かすのと、体の先だけを動かすのと、どちらが早いかは考えるまでも無いだろう。
そして、どちらがより体力を消耗するかも。
要するに、そういうことだ。
僕はあっという間に防戦一方になった。
「どうしたどうしたァ?オニィサン、息が上がってるよォ?私は少しも”やる”奴じゃないんでしょ?どうしたのォ?」
そしてハハハハハハハ、という酷く耳障りで甲高い、ガキ特有の声。
だが、今の僕にはそのあからさまな挑発や皮肉に言葉を返す余裕も無い。
刃がついているのは鎖の先だけである以上、鎖の部分は必ずしも危険ではない。
むしろ、そこに触れられれば相手の鎖のコントロールを乱すことが出来るだろう。
少し距離をつめればそのままラスカの懐まで妨害無しで間合いを詰められそうなものだ。
しかし、僕は一向に間合いを詰められずに居た。
ラスカの振るう鎖束の鎖はそれぞれ長さが不揃いで、4メートル以上のものもあれば、1メートル程度のものまである。
長さが違うそれは、とても扱いにくそうだったが、ラスカはまるで自分の手足の一部のように扱っている。
ここに来て僕は、やっと何故ラスカが接近戦に馴れていないのかを理解した。
この武器を使って遠くから相手を切り刻むのがラスカの狩りの常套手段なのだろう。
そして、僕もこのままでは反撃の糸口すら掴めずに切り刻まれてしまう。
そう思うや否や、僕はパーカーのポケットに手を伸ばし、メスを引っつかむ。
時間をかけていては、追い詰められていく一方だろう。
少なくとも、今まで生きてきて決断を先延ばしにして得をした事はない。
過度の運動で息苦しさを覚えた僕は、軽く息を吸い、息を吐き出すとのに合わせてメスを投擲。
メスはカッターの刃に繋がる鎖のうちの一本にぶつかり、一瞬だがラスカの手からそのコントロールを奪う。
僕はそのまま間髪居れずに、メスを投げた左手でカッターの刃の群れを払った。
いくつかが肌を切り裂いたが、指向性を失い、宙から落下しようとしているだけのナイフを払ったところで傷が肉まで達する事はない。
払った刃の群れからラスカの姿がはっきりと見えた。
―――いける!
そんな確信と共にラスカとの距離を詰める僕の前に、こぶし大の白い塊が飛び込んできた。
見れば、ラスカの右手が、小指から中指までの三指でカッターナイフを掴みながらも、親指と人差し指を開いた形でこちらに伸ばされていた。
僕は「ああ、目の前のこの白い塊はラスカが投げたものなのか」と、頭のどこかでぼーっと考えながらも、投げられたその白い塊から逃れようとした。
しかし、避けられなかった。
僕はすでにラスカとの間合いを詰めようと足に力を入れており、ラスカの投げた―――というより放ったといった方がしっくりくる―――白い塊は僕に接近しすぎていた。
驚く僕を他所に、白い塊が爆発した。
「―――――――――ッ!!!!!」
まず、目に入ってきたのが緑色。
圧倒的なまでの緑の輝き。
それから赤や黄色の奇妙な色の火花が僕の視界を塞いだ。
眼球を火花で焼かれぬように咄嗟に左手を顔の前に持って行きながらも、僕の頭の中は「ああ、もうだめだ」という敗北感にも似たあきらめで埋め尽くされていた。
[前のページへ] 戻る [次のページへ]