ブーンがシリアルキラーになったようです。  11、因果応報1





せめて微笑みながら言えよ

     ―――ダグラス・クラーク
          人を殺すことを「用を足す」と表現したという、少なくとも六人を殺した連続殺人犯。
          上の台詞はガス室で受けた死刑宣告に対して返した言葉。
          


「だから、Xの切片を求めるにはァ、Yに0を代入してェ・・・」

教壇に立った数学の先生のけだるげな声が響く。
数学の先生は、体育の先生と見間違うほどにがっしりとした体躯の持ち主だ。
正直、黒板をそのやたらと立派なガタイが隠していて、ノ−トを取り難いことこの上ない。
新任であるにもかかわらず、数学の先生の授業態度からは全くやる気も緊張も感じられない。
定年間近のベテラン教師でさえここまでやる気の感じられない授業はしないだろうとさえ思えるほどだ。




「Xには-4か2を代入すれば0になるのでェ、漸近線がァ、-4と2でェ・・・・・・」

先生が呟くごとに、黒板には新たな数式が書かれていき、グラフに印がつけられていく。
僕にはそれが意味不明の言語と訳の分からない、未開発地に住む土人の描いた抽象画に見えた。
この先生の授業は、やる気が無いだけでなく、分かりにくい。
というか、先生の方に、生徒に理解させようという気が見られない。
さらに、先生は授業終了の鐘がなると、質問を避けるかのようにさっさと教室から出て行ってしまうので、
後から自分で教科書を読んだりして勉強するしかない。
・・・・・・・・・、よく教育実習を問題なく済ますことが出来たな、この先生・・・。

「漸近線にグラフが触れるのは有り得ないのでェ、グラフを書くときはァ・・・・・・」

ありえないのはあんたの授業だよ、と心の中でツッコむ。
先生が黒板に書いていくグラフと数式を適当にノートに取りながらも、僕はツンを眺める。
ツンは真面目にノートを取っている、ふりをして左手で机の下で広げた雑誌を読んでいる。
他にも何人か、MDを聞いていたり、マンガを読んでいる生徒が居るが、先生は注意しようとしない。
多分、面倒だからだろう。


僕がツンを殺したがっている事を自覚して以来、僕はツンを避け続けている。
学校でも話さなくなったし、一緒に”狩り”もしなくなった。
ツンには「もうツンとは狩りはできない」とだけしか伝えていないのだが、ツンは何時かの屋上でそうしたように、
ただ優しく微笑むだけだった。
そして僕には、それが一番辛かった。

「これだけではグラフがどこを通るかはわからないのでェ、順番にYに数字を代入してェ・・・・・・」

僕とツンは一体どういう関係だったのだろうか、と考えてみると、僕には僕達の関係を表すのにしっくりと来る言葉が思いつかない。
恋人、というには、僕らは別に付き合っていたわけではないし、
ただの同好の友人と言うには、僕らは親密すぎたし、そこには友人以上の想いが存在していたような気がする。
例えば、愛とか。
そうだ、僕は確かにツンを愛していた、はずだ。
だが、それは殺す対象として愛していたのか、
単純に恋人としてみていたのか、ツンへの殺意を自覚してしまった今となってはよく分からない。
いや、自信がもてない。
僕は結局ツンを―――


そこで授業終了を告げる鐘が鳴った。
問題の解き方を説明している途中だったにもかかわらず、先生は日直に号令をするように命令。
起立、礼、着席。
殆ど反射と化した動作を済ませる。
鐘の音のせいで、思考を中断させられて、心にもやもやした物が残ってしまっている。
なんだか、酷く気分が落ち着かず、息苦しいような、苛立たしいような奇妙な感覚にさいなまれる。
今夜あたり、狩りにでかけよう。
今はとにかく、他の事で気を紛らわせたかった。


ほかの事をぼんやりと考えている間というのは不思議なもので、気が付いたら帰りのHRは終わり、僕は自転車で校門をくぐっていた。
部室にはもう行っていない。
僕は一人であの部室で、あれほど居心地の良かった思い出の残っている部室で二時間以上も本を読み続ける事はできなかった。


部長のお気に入りの本ばかりの入った本棚はそのままにしてある。
部長が生きていた頃は、こまめに本の上に乗っていたほこりを払っていたものだが、もう本がそれをされる事は無い。
今頃は、本だけでなく部室全体にも埃が積もっている事だろう。
だが僕は、部室に入る気は無い。
僕は部長から、部長の残滓から逃げ出したのだ。

「・・・・・・・・・やっぱり、つまんない感傷だお。」

軽く頭を振って、気分を切り替えようとする。
が、心に残った暗鬱な気分は消えない。
一度ため息をつき、顔を上げると僕の視界に喫茶店が映った。
確か、前に誰かと一緒に来た事があったような気がする。
しかし、よく思い出せない。
思い出せないのだから、どうでもいい人なのだろう。
もはや僕にとって、僕の根幹に関わらぬ死者は、塵ほどの価値も無かった。
喫茶店か・・・・・・・・。
気を紛らわすには丁度いいだろう。
僕は喫茶店の入り口をくぐった。



「・・・・・・・・・・・・。」

店員に案内されると、一番奥の席に座った。
窓際の席は、なんだか他人に覗かれているような気がして落ち着かない。
それはおそらく、僕が心のどこかで世間に対してやましい事をしているというような心理から来るものだろうが、
僕にはこれっぽっちもやましい事などしていないはずだ。
メニューを開いて、適当にカプチーノと、小腹が減っていたのでサンドイッチを頼んだ。
絶妙な焼き具合のパンの表面と、はさまれたツナ。美味い。

「・・・・・・・・・・・・・・・。」

が、隣の席でいちゃつくカップルを見て、気分は一気に最悪に。
「人前でいちゃついてるカップルはブサイクが多い」というのを聞いたことがあるが、
僕の隣でいちゃついてる連中は、どっちも結構整った顔をしてる。
それが余計いらだたしい。
できるだけ二人の方を見ないようにして時間を潰した。
狩りをするなら、夜の方がいい。

「870円になります。」

外が暗くなったのを確認して、僕はレジ打ちに代金を払う。



「130円のお返しです」

釣銭を受け取ると、僕は喫茶店のドアをくぐり、外に出た。
止めてあった自転車にまたがり、ペダルをこぎ始める。
空を見上げれば、上り始めたばかりの馬鹿でかい月《狩猟月》。
前回の満月から一ヶ月、再び一巡して満月が来たようだ。
相変わらず、高いところから人を見下ろしているようで胸糞悪い。
上を見ながら自転車を漕いでいたら、石を踏んでしまってバランスを崩した。
そのまま転倒。
幸いな事に、周囲には人は居なかったが、恥ずかしかった。
頭にきたので原因になった小石をつかんで月に向かって投げた。

「死ね!」

結構高いところまで小石は上がって行ったが、糞忌々しい月には当然届かなかった。
暫くすると、投げた小石が重力に引っ張られて落ちてきた。
目の前をとんでもないスピードで小石が通り過ぎていき、地面に音を立ててぶつかった。
少し冷や汗。
落ち着いてくると、だんだんと馬鹿馬鹿しくなってきて、僕は自転車を起こしてそれに跨る。
ペダルを漕ごうとした瞬間、足に込めた力に全く手ごたえ(足ごたえ?)が帰ってこないことに気づく。
みれば、自転車のチェーンが外れている。



転んだときに外れたのか、それとも落ちてきた石が自転車に当たった拍子に外れたのかはわからない。

「・・・・・・・・・・・・ついてないお・・・。」

僕はチェーンを掴み、無理やり元の位置に戻そうとするが、戻らない。
諦めて手をチェーンから離すと、自分の手がチェーンの錆びだらけになっている事に気が付いた。
最悪だった。
僕はそのまま自転車を手で押しながら歩いて帰った。



家に帰るなり僕はパーカーとナイフを引っつかんで再び外に出る。
もう三月に入り、少しずつ暖かくなってきていたのだが、パーカーのポケットに入っているメスを入れ替えるのが面倒なので、
そのままパーカーを羽織る。
玄関の扉をくぐると、家に鍵をかけ、自分の鍵を開ける。

「さてと、行くお。」

僕は無意識に隣に話しかけて、口をつぐんだ。
今までは鍵を開けるときには僕の隣にツンが居た。
が、今ツンは居ない。


そう考えて、何故僕があの喫茶店でカップルを見てあそこまで苛ついたのかがわかった。
僕は嫉妬していたのだ。
僕がおそらくもう手に入れることの無い物を手に入れているあの二人に。
少し、物悲しくなったが無視して歩き出した。
得物を物色するために。

僕の狩りは場所を探す事から始まる。
それは、人を殺しても見つかりにくい場所、それでいてある程度の人通りのある場所だ。
例えば、深夜の野路裏や高架下、駐車場、他にも、ちょっと引っ張るだけで人を連れ込めそうな場所。
僕はそんな場所を見てまわる。
そして僕は見つけた。人の居なくなった、作業途中の工事現場を。
鉄筋で大まかな骨組みは作られており、半分近くが完成した家屋だ。
中で何かあっても、その最中にはほぼ間違いなく見つかる事は無い。
その現場の中に潜んで、前を通りかかる人を待とうと考えたのだが、おあつらえ向きに中には人が居るようだ。
近づいて見た所、居るのは黒いスーツ姿の男一人だけ。しかもこちらに背を向けている。
これ以上無い狩りの好機。


僕は工事現場で一人佇む男の背中目掛けて近寄っていく。
気配を殺して忍び寄るなどというまだるっこしい事はしない。
男までの距離十メートル程を走りながら四歩で詰めて、振り向きかけたところを一撃。
それでお終いだ。
一歩目。男が僕の足音に反応。周囲を探る。思ったよりも反応が早い。
二歩目。男が僕の方向に見当をつけた。
三歩目。男が振り向く。
が、もう遅い。
後は四歩目と共に思い切り飛んで、踏み込み、体重と勢いを乗せてナイフを突き入れるだけ。
四歩目。僕の足が地面から離れる。
残った四メートルほどの距離が一瞬でゼロになる。
そのまま疾走の勢いに載せてバタフライナイフを突き出す。
男は完全に僕の方に振り返るが、僕のナイフは深く突き刺さっていた――――
―――――男の合わせた両の掌の間に。

「・・・・・・・・・・・・・・・ッ!!!!」








「でも本当に来るんですかね?」

建設途中の工事現場で佇む、仕立てのいい黒いスーツを着た黒髪黒瞳の男、日浦に、どこからともなく声がかかる。
声の主は城嶋だ。

「知るか。少なくとも確実に生きたまま捕らえるには、これが一番有効だ。お前の仕事は殺す事で、考える事じゃない。」
「でも生け捕るんでしょ?殺しても良いんじゃなかったんですか?」
「さあな。"開いて"から一、二ヶ月で一年以上の古参を殺すなんて、今までに例が無いそうだ。上の連中は現場の苦労なんざお構いなしだからな。」

忌々しげに日浦が吐き捨てる。
彼らの仕事は単純。
最近この街で暴れまわっている連続殺人犯を捕まえる事。
彼らはここ最近になって日本各地で多発している、超人的な身体能力を持った殺人犯達、俗に「2ちゃんねらー」と呼ばれる連中に対する対抗策として組織された。
組織された、とはいっても、彼らの部署――書類上は公務員で、警察の一部署という事になっている――は試験運用段階としての色合いが強い。


しかし、試験運用段階である彼らは圧倒的に人員が不足していた。
そこで考え出された苦肉の策が、「逮捕した2ちゃんねらーの中からある程度の協調性と従順さを持った連中を職員として迎える」という物だ。
ただし、24時間その居場所をモニタリングし続ける発信機をインプラントして。
この平和であったはずの国で何人もの人間を殺している殺人鬼達に、罪を罷免して職場と給与まで与えるというのは異例の案件だったが、
今の彼らは2ちゃんねらーについて殆ど何も知らないと言っていいような状態だ。
試せるものなら何でも試しておきたい、といったところか。
いわばこれは、これから本格的にその部署を組織していくかどうか、実際に彼らがどれだけ”使える”のかを見極めるための試験だ。
その試験の対象に選ばれたのが、連続学校爆破犯の少女と、未だ殺人は犯していないにしても傷害事件を何度も起こしている城嶋だ。
城嶋の方は、少々性格が変わっているが、確かに協調性はある。
だが、連続学校爆破犯の少女については、何故彼女が今回の仕事に連れて行く職員の一人に決まったのか、さっぱり理解できなかった。
確かに腕は立つだろう。
現在、彼らが知りうる2ちゃんねらーの中で、あの少女は最古参の一人だった。
そう、”だった”。
彼女は死んだ。
殺されたのだ。彼らの捕獲対象に。



「・・・・・・・・・・・・・・・。」

そこで日浦は、城嶋が居るであろう方向に向けて哀れみの篭った視線を向ける。
彼自身、城嶋や死んでしまった少女に道場や憐憫のようなものを感じないわけではないのだ。
2ちゃんねらーになる前から恒常的に傷害事件を繰り返していた城嶋はともかく、少女の方は2ちゃんねらーにさえならなければ、そのまま殺される事も殺すことも無く穏やかな一生を終えただろう。
だが、2ちゃんねらーになってしまったばかりに、少女は完全に”はずれてしまった”。
人の道からも、人間の定義からも。
だが、少女が死んでよかったのだと思う彼も、確かに居た。
あのまま生きていても、おそらく少女は人を殺し続け、そして彼らに使い潰されていくだけだろう。
それを辛いとも悲しいとも感じず、ただ壊れたように笑いながら。

「傲慢、だな・・・。」

ぼそりと呟く。
他人の人生を勝手に評価して他人の幸せを定義するのは傲慢以外の何物でもないはず―――
その時、空気が”跳ねた”。


何かが地面を蹴って、とんでもないスピードで接近してくる。

―――来た。

そいつの踏み込みの音が響くと同時に、日浦はそれが彼らの待ち伏せていた相手だと確信する。
彼らがこのような罠を、今までの対象の行動や、対象が犯したとされる殺人の現場から、対象がどのような状況下で殺人を犯しやすいか、
どのような条件で殺害対象を選んでいるのかを彼なりに予測し、それに近い状況を作り上げて罠を張ったのだ。
待ち続けること八日。
ついに、対象が罠にかかった。
そこまでの思考は一瞬。
思考を辿ると共に、彼の体は八日間シュミレートし続けた通りに、今まで頭の中で考えていた通りに動く。
相手の三歩目の足音が響くと共に、反転、相手と向き合う。
その時には相手は四歩目を踏み出していた。
相手の握るナイフの高さから、狙ってくる部位を逆算。日浦は殆ど反射的に両腕の肘を曲げて自らの胸の前に持ってくる。
そして彼が脳内で尾も描いたとおり、その両手の手のひらの間に対象の握ったナイフがつきこまれていった。




「・・・・・・・・・・・・・・・ッ!!!!」

驚愕で一瞬、思考が停止した。
僕の突き出したナイフが目の前の黒スーツの男の両掌で挟み込まれている。
白刃取り、というやつだ。
一端ナイフを退こうとするが、目の前のスーツ姿の男の手で挟まれたそれは前へも後ろへも一ミリたりとも動かない。
白刃取りと男の腕力に驚いている僕の肩口に、頭上で空気の動く気配が伝わる。
瞬間、頭の中に警告音が鳴り響き、全身が総毛立った。
一体何事かと考える間もなく、ナイフから手を離して飛びのくと、一瞬前まで僕の立っていた場所に木材がたたきつけられた。
さらに一瞬送れて響く着地音。
その時になってやっと僕は、木材を握った男が僕目掛けて頭上の足場から飛び降り様に攻撃を仕掛けてきたのだと気づいた。
頭上には建設途中の家の作業用の足場が組まれている。
そこから飛び降りたのだろう、ヘラヘラと笑う明るい茶髪の男が、床を殴った衝撃で折れてしまった木材を捨て、側に立てかけてあった木材を掴んだ。



「殺すなよ。」

スーツを着たほうの男が、先程僕が手放したバタフライナイフを畳んでしまいながら、茶髪の男に向けて言った。
僕の突然の襲撃にも全く動じず、全て予定通りとでも言わんばかりの顔。
対して、僕の顔には明らかな狼狽が浮かぶ。
というのも、僕の渾身の奇襲を完璧なタイミングととんでもない膂力でもって白刃取りした目の前のスーツ姿の男の胸には何度見ても鍵穴がついたままだったからだ。
2ちゃんねらーではない。
そして分かっている事がもう一つ。
僕は完全に待ち伏せられており、今、攻撃を受けているという事。
間違いない、こいつ等は狩人だ。
僕という獲物を狩るためにここで待ち伏せていた狩人だ。

「どうした?俺達が待ち伏せていた事がそんなに信じられないか?」

黒いスーツを着た男が、驚愕を顔に張り付かせたままの僕に向けて問いかけた。


なんとなくだが、男の怜悧な顔立ちに浮かぶ冷静な表情の中には少々の怒りが含有されているように思えた。

「これだけ派手に殺してきたんだ。見つからないとでも思ってたのか?」

黒スーツが心底呆れたとでも言わんばかりに、口の端を少し吊り上げて嘲るように笑った。
普段そういう笑い方に慣れているのだろう。やけに似合っている。

「・・・・・・・・・なんなんだお?お前等は。」

僕は思わず尋ねる。
答えが帰ってくるとは思えなかったが、時間を稼げればそれでいい。
今、僕は囲まれている。
黒スーツが目の前に、そして向かって左斜め前方に茶髪。
退路を塞がれているわけではない。
しかし、僕は既にこいつ等の待ち伏せに”囲まれて”しまっている。
待ち伏せた相手の方が冷静だし、受けた方は圧倒的に冷静さを欠く。
その上、二対一という人数差。
それらによる精神的な圧迫。
即ち、僕はこの”待ち伏せ”という状況そのものに”囲まれて”いる。


やばい。無茶苦茶やばい。
逃げようと思えば逃げられるだろうが、簡単に逃がしてくれるとは思えない。
特に、目の前の黒スーツは、明らかに僕より後に動いたくせに、僕の完全な奇襲を防いでみせた。
奇襲と先制という二つのアドバンテージを失った今の僕より、黒スーツは確実に速いはずだ。
なんとか突破口を見つけなければならない。

「俺達か?しがない公務員だよ。市バスの運転手と同じようなもんさ。お前等2ちゃんねらーの人生を死に向けて運転してやる、な。」
「国民の公僕が無害な一般市民に手を上げて言いのかお?」
「は、笑わせるな。2ちゃんねらーが害の無い一般市民なわけないだろ―――」

黒スーツの言葉が終わるか終わらないかのうちに、僕は動いている。
目の前の黒スーツの方が僕よりも速く動けるのはもはや疑いようが無い。
ならば、後手に回っては勝機などあるはず無い。
パーカーのポケットからメスを数本取り出すと、一息で全て黒スーツに向けて投擲。
しかし、黒スーツはそれらを全て、指の爪先でメスの側面だけを的確に打ち、空中で叩き落とした。


常人以上の動体視力を持つ、2ちゃんねらーの僕だからこそ見えたが、そんな人間離れした真似は、それこそラスカのような古参2ちゃんねらーですらできるかどうかわからないだろう。
いや、あの少女なら平気な顔をして同じ所業をやりかねないが・・・。
そんな事を考えながらも僕は茶髪の方に向かっていく。
茶髪は突然の僕の突撃に怯む事無く、容赦なく木材を振り下ろして迎撃する。
茶髪の腕は、相手に木材を当てる瞬間だけ手首を思いっきり動かし、それ以外の時は振り下ろす途中でも全く手首を動かさない。
どうしたら相手に避けにくい一撃を出せるか、よく知っている人間の動きだ。
僕はそのまま地面を転がるように前のめりに茶髪の懐に飛び込み、振るわれた木材をかわすと、
茶髪の側に立てかけてあった木材を右手で一本引っつかみ、振り向きざまに木材を茶髪に叩きつけようとする。
が、僕の振るった木材は僕の右側にあった、工事途中の家の木製の支柱に激突。
地面に刺さった木製の支柱に大きなへこみができて、木材がへし折れる。
へし折れ、細かい破片と名って飛び散った木材が、幸いな事に茶髪の顔へと降りかかり、茶髪が怯む。


僕は半分の長さとなってしまった木材を、牽制のために近づいてきた黒スーツへと投げつけるが、黒スーツはその場から動かずに飛来した木材を空中で叩き落す。
しかし、その隙に僕は側に転がっていた鉄パイプを拾い上げると、黒スーツから距離を取りつつも、微細な木片で目潰しを受ける形になった茶髪へと殴りかかる。
あちこちに工事のための足場を支える木製の支柱や、家の骨組みの鉄製の支柱があるため、長い得物を振り回しづらい。
鉄パイプを振り回すスペースを計算していてタイミングを逸したためか、茶髪は空気の流れから鉄パイプの起動を読んで、その場にかがむ。
僕の渾身の力を込めて横殴りに振るった鉄パイプが茶髪の頭上を通過し、その後ろ、先ほどの木製の支柱に激突。
金属が硬い物にぶつかる耳障りな音を立てながら鉄パイプがひん曲がり、木製の支柱がへし折れる。
さらに茶髪に向けて追撃をかけようとするが、いつの間にか接近していた黒スーツが僕の腹に周し蹴りを叩き込んできた。
膝から先の足首と足の指先までがぴんと伸びた、黒スーツの足の足首関節部分と指の関節部分の丁度中間が、鞭のようにしなりながら僕の腹筋へと伸びる。




「・・・・・げ・・・・・・ッ!!!!!」

咄嗟にひん曲がった鉄パイプを腹と男の足の間に滑り込ませるが、男の足はひん曲がっている鉄パイプを別の方向にさらにひん曲げて、そのまま鉄パイプごと僕を蹴り飛ばした。
僕の口から空気が吐き出される。
蹴りの勢いのままに僕の体は吹き飛ばされる。
なんとか立ち上がろうとする僕の口から、腹を蹴られたショックからか、吐瀉物が漏れる。
蹴られた僕の腹辺りから鈍痛が発生し、僕はそのまま内臓も吐き出してしまうのではないかと思えるほどの勢いで吐いた。
鉄パイプで防いだ上から蹴られただけでこの衝撃。
やはり黒スーツの方は只者ではない。
僕が起き上がると、黒スーツはゆっくりとこちらに向かって歩いてくるところだった。
そして、茶髪の方も目をこすり、視界を回復させつつある。
対して僕は、蹴り飛ばされて腹に大きなダメージを抱えている。
が、全て想定の範囲内だ。
二対一のこの状況下で、どうやって切り抜ければいいのか。
二対一という状況が不利ならば、一対一にしてやればいい。
即ち、速攻で弱そうな方を倒して、もう一人と向き合う。
なら、それに失敗した場合は?


答えは簡単。
逃げるしかない。
僕が蹴り飛ばされたのは、工事途中の家屋の入り口付近。
そして、今、この工事途中で骨組みが完成するかしないかという程度のこの家屋の支柱のうち一つはへし折れている。
僕は起き上がると手近な木製の支柱を、手に握りっぱなしだった鉄パイプで殴る。
黒スーツが僕の目的を理解したらしく、間合いを急いで詰めてくるが、もう遅い。
僕はさらに鉄パイプで支柱を殴る、殴る、殴る。
腹のダメージで先ほどのような力は出せないが、四度目の打撃で支柱はへし折れた。
そして建設中の家屋が倒壊した。









先ほどまで家の骨組みを形作っていたはずの瓦礫から一人の青年が這い出してきた。日浦だ。
元は仕立てが良かったであろう黒のスーツは、瓦礫から出てくるときに破いたのだろう、一部が千切れていてあちこちに木片がこびりついていた。
日浦は自らの体をはたいてスーツに付着した木片を払うと、周囲を見渡す。
が、同じく倒壊に巻き込まれたはずの城嶋の姿も、倒壊を引き起こした張本人の姿も見当たらない。
どうしたものかと考えていると、日浦の足元で瓦礫が動く、かすかな音が響いた。
注意してみれば、人間の指先らしきものが瓦礫の隙間からかろうじて見える。
んー、といううめき声のようなものが聞こえるが、何を言っているのかはよく聞き取れない。
日浦は瓦礫を軽く掘り起こし、出てきた手をつかむと一気に引き上げる。

「いや、参ったッスわ、あれは。まさか家ごとぶっ壊してくるは思いませんでしたよ、いやホントに。」

陽気な声とともに瓦礫の中から現れたのは城嶋だった。
どうやら先ほどのうめき声は助けを求めていたわけではなく、単に雑談を始めようとしていただけらしい。


城嶋はひとしきり自分の言いたい事を喋ると、辺りを見回した。

「あれ?内藤とかいう奴はどこいったんスか?」
「逃げられた。奴は出入り口付近に居たからな。脱出も簡単だったんだろう。」

日浦が忌々しそうに答えた。
一度待ち伏せて逃げられた以上、対象は警戒を強める事になるだろう。
待ち伏せがもう一度成功するとは思えない。
かと言って、こちらから相手の家に乗り込んでいくのは躊躇われる。
相手も警戒して何らかの策を練ってくるだろうし、そうなれば生け捕りにするのは難しい。
日浦の口から自然と舌打ちが漏れる。

「いっその事、あいつの友達でも浚っときます?」

日浦の舌打ちに気づいた城嶋が、笑いながら軽い調子で言った。
それに対し、日浦が呆れたような顔と声色で返事を返す。





「あのなあ、お前は一応だが公務員って事になってんだ。民間人浚うなんて事が出来るか。」

だが、城嶋の笑みは崩れない。
いや、むしろ一層その笑みが深くなったように思える。
唇の形だけ見れば笑っているように見えるが、目には剣呑な光が宿っており、少しも笑っていない。

「だから、一般人じゃない奴を浚えばいいんスよ。もう一人居るでしょ、共犯が。」

城嶋のその笑みを見て、日浦は思いしった。
従順そうに見えて、こいつもやはりどこか”はずれて”いる。
まともな2ちゃんねらーなど居はしないのだ。



第十一話・完



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